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21ノストラダムス(1)   (2)   (3)   (4)   (5)8月28日発刊予定

今は、ちょっと縁が遠のいているけど、一時期とても親しくしていた作家さんがいた。その人と電話で話が始まると一時間は当たり前……という気の合いかただ。隠すこともないと思うので名前をいうと「八剣浩太郎」という筆名の著者である。江戸時代の剣の使い手、颯爽たる美貌の剣士を書かせたら右に出る者は居ないと自他共に認める作家さんである。彼から電話で銀座に呼び出され、呑み喰いしているうちに談たまたまノストラダムスの話題になった。彼は言った。「僕はノストラダムス研究家の池田邦吉さんを絶対に支持している」その人の本は八重洲ブックセンターの一番いい場所で畳2枚分くらいのスペースで平積みされていたのをちょっぴり羨望のまなざしで見たことがある。
八剣先生は気軽に言った。「今から来て貰って一緒に呑もう」と。冗談だと思った。いつ電話したのか分からなかった。30分ほどしてからだったろうか。「お待たっせ」。いきなり頭の上から声がした。
噂の池田邦吉先生の登場だ。びっくりした。聞けば60万冊売れたという。先生とはそれっきりお会いすることもなくまたたく間に5年の月日が過ぎた2003年の早春だった。「原稿を送りたいけど読んでもらえるかなー、記号の読み違いで99年には何事もなかったけど預言は必ず成就する」。気合いの入った師の言葉に打たれた。
直ぐに送ってもらい、一気読みした。「前の出版社との話し合いはついていますか?」私の問いかけに「成星出版はつぶれたからいいんだ」無造作に言われて絶句した。「もしかしてまたはずれるかも知れないけど先生の研究を発表するお手伝いしましょう」私にも気合いがはいった!


あしたの世界(1)

21ノストラダムスを第3巻まで出したところで著者の池田邦吉先生とすっかりうち解けた仲となった。ある日ふらっと来社した先生の手には、船井幸雄会長と浅見帆帆子さんの対談本がしっかりと握られていた。「ここんところが面白いよ」池田先生の開いたページや先生の言葉は僕にとって上の空……。「先生! 先生ご自身、船井会長とお親しいんでしょうから、先生も船井会長と対談なさったら如何ですか? 」こちらの言葉に一瞬きょとんとした感じの先生だったが、立ち直りは早かった。いきなり電話に手を伸ばし、会長の秘書と対談日の打ち合わせに入ったものだ。「明後日はどうだ」との畳みかけに今度はこちらが慌てた。なんとか日時を調節し、それまで遠くの人と思っていた船井会長の事務所で無事に対談に成功したといういきさつです。対談が終わった早々、船井会長から嬉しくも有りがたい話がポロリ! これについては「地球大改革と世界の盟主」の発刊秘話にて……。


  世界を変えるNESARAの謎

ある日、知らない男性からメールが入った。「出版したい原稿を書いたけど読んでもらえないだろうか。宇部市のT子さんから、明窓出版がいいと思うと薦められた」という内容だったと記憶している。僕としては、彼の言う概要にも興味があったし、T子さんが言ったという言葉も嬉しかった。
直ちに「読んでみましょう」とリメール。面白かった! というか、衝撃に近いものを受け取った。しかしいつものことではあるが、迷った。ケイ・ミズモリという名前は聞いたことがない。つまり“無名作家”だ。何日かの逡巡をへて決心がついた。早速T子さんに報告。アリゾナに住んでいる「宇宙心」の著者である鈴木美保子さんにも電話した。ご両人とも喜んでくれたことを今でも憶えている。
ケイさんとのやりとりも順調に進み、写真等も彼の手配ですべて揃った。「ここまで書いた本を出しちゃヤバイかな?」とちょっぴり不安が頭をよぎった。ま、その時はその時で考えよう……。いつものノー天気で突っ走った。
縁がなかったのか、本が刷り上がり、紀伊国屋全店を含め主だった書店さんに並んだ(2005年のクリスマス頃)後もケイさんと会うことはなかった。
これもある日のことだった。いきなり“U”と名乗る人が来社した。手には「世界を変えるNESARAの謎」を持っている。「こんな面白い本を出す出版社に僕の書いた原稿を出版して貰いたい」それが彼の初対面の挨拶だった(それの顛末は後日に譲る)。それが縁となり彼とかなりうち解けた話をし合う仲となった。「僕の原稿を本にするについてケイ・ミズモリさんに一役買ってほしい、それについて彼を引き合わせてもらえないか」。彼の言葉に、そう言えばまだケイさんと会ってなかったなあ……と僕。
「そんなことってありー?」のけぞる彼を尻目にケイさんに電話でアポをとり、品川で会ったのが既に2月の末だった。われながらいい加減なものだ。
これって「発刊秘話」じゃなくて「後日談」だよね。


  大きな森のおばあちゃん

 中野の駅ちかくに「圭」という旨い食事を出す店がある。月に一度、そこで会合がある。何度目かの時、主催者が私の向かいに座った可愛い子ちゃんを紹介した。その子、柴崎るりこさんは、恥ずかしそうに「これ、わたしが描いたものです」といって小さな絵本のようなものを見せた。見ると、なんと、奇抜な衣装とウーロン茶のコマーシャルで一世を風靡した直木賞作家の志茂田景樹との合作ではないか! 
ウーン、これは素晴らしい……と感嘆久しい私に主催者が追い打ちをかけてきた。「よその出版社から出た本に感心ばかりしてちゃ仕方がないじゃないですか。いま思いついたんだけど、彼女と誰かほかの有名人とのコンビでこれと同じノリの本を作ったらどう?」私はいちころで乗ってしまった。
「明日でも明後日でもうちにいらっしゃい。じっくり話し合いましょう」。
彼女の反応も早かった。3日後には明窓出版で私の前に座っていたのだ。
ちょっぴり不安げな彼女に、はったり半分でえらそうなことを言ってしまった。
「どんな有名な作家さんでも、ご本人が潜在的に『こんな本を作りたい』と思っている企画を持ち込めば“よくぞ声をかけてくれた”と大喜びしてくれるはずです。そうなると、大作家ほど出版社の大きい小さいは気にしないものです。僕も考えてみますから、るり子さんも、誰に当たってみるかここは一つ大きく考えてみてください」
彼女の綺麗な瞳がみるみる潤んできた。感動してくれたらしい。私もなんだか胸が熱くなっていた。
10日ちょっと過ぎた頃だったろうか。彼女から、OKの返事がもらえた作家さんとして天外司朗先生の名前がファックスされてきた。
「やったー!」真っ先に喜んだのが編集長の麻生だった。恥ずかしながら私はその時点では天外先生の名前を知らなかった。ソニーの重役で、あのロボット犬の発明者だということは勿論知ってはいたが同一人物だとは知らなかったのだ。
本にする作業がガンガン進んでる最中にどっきりする話を投げかけられた。「このストーリーを話してくれたアフリカ在住のダフニー・シェルドリックさんの財団に30万円ほど寄付してほしい。そのうちの10万円については自分達の印税から差し引いてもいいから」天外先生のご託宣だ。
「必ず売れるから……絶対売れる本にするから……」我が社の経理重役を必死に口説いて財団に送金。意気込みを神様が褒めて下さったらしく評判は上々である。


持っているだけで奇跡が起きる本

  かつて「音羽御殿」といわれたところで、月に一度会合があり、一時、毎月出席していた。そんなある日の席上、新入会員を紹介する主催者(Hさん)の言葉の中で「エネルギー・パワー」というのが耳いっぱいに響きわたった。雑談をやめて集中した。近頃話題のヒーリングについてだった。仕事柄、そのての話は多く聞いているものの、啓さんの話にはなぜか大きく心が動いた。後日二人だけで会い、出版を薦めた。
ライターも決まり、取材に入る間際になってドタキャンに見舞われた。「なぜか分からないけど『それは違う! 』という言葉が聞こえてきて、涙が止まらないのです」。呑むしかなかった。
10日あまり後のことだったろうか。「彼女からちょっと見て欲しい」といって10数枚の絵が会社に持ち込まれた。見るなり私は唸った。「これに30字以内の言葉をつけて本にしたいのです」。見据えてくる彼女の目にすごい手応えを感じたのを今でもはっきり憶えている。
さてタイトルはどうしよう……。茶飲み話の折り、私の口からふと出た言葉「持っているだけで奇跡が起きる本」。彼女の顔がぱっと輝いた。「神様があなたの口を借りて教えて下さったのよ。それしかないわ」「えっ、こんな決まり方もあり?」「たくさん売れるかどうか分からないけど、ほんとに必要な人には確実に届く本になるはずだわ」彼女は断固としてこのタイトルを支持した。
後日談であるが「本屋さんに何気なしに入ったら、別の棚からこの本に呼ばれた」とか「いつもは、目に付いた表紙を見て、先ず、目次、はしがき、中をパラパラっと見てからどうするか決めるのだけど、この本は棚で見かけたとたん、迷わずレジに持っていった。電車のなかで読んでいる間、回りに恥ずかしいほど涙が止まらなかった。帰宅して何人かの友だちにこの本を勧める電話をかけまくった」などという手紙をいただき、「出してよかった……」との感動に胸を衝かれる日々がそうとう長く続いた。


青年地球誕生 〜いま蘇る幣立神宮〜

明窓出版で年に1冊の割合で出しているエッセイ集「窓」がある。いま第14集を手がけているところだ。それの第5集の時だからかなり旧聞に属する。Kさんという人の紹介で幣立神宮を知った。伊勢神宮の親の親のそのまた………………という由緒正しい神宮とのことで、早くも胸がときめいた。早速「窓」への参加をお願いしたところ快諾を得た。第7集にも出ていただき、原稿のやりとり等でまだお会いする前からかなり親しくなった。7集編集の時である。紹介者のお誘いで熊本にある神宮参拝をご一緒した。お会いした春木秀映宮司は見るからに飄々とした、仙人もかくやと思われるまことに風格あるお人であった。当時、齢89歳だったと記憶している。開口1番「kさん、だいぶ前から神さんと話が出きるようになってなー。必要なものはすぐに手にはいるようになったよー。この家もこのあいだ建て替えることができたし、本屋に並ぶ本の出版もできたしな」大きな立派なご自宅だった。そのとき頂いた「青年地球」を読んで私は決心した。「こんな優れものを書店に並べない法はない!」思ったら直ちに実行するのがよかれ悪しかれ私の性癖である。
宮司に手紙で依頼した。これも快諾を得はしたものの、それから地獄の日々が始まった。古い古い話の連続で、なんとか今の人たちに分かってもらえる本にしたい、また、戦争中の話など、私の年代だと興味津々ではあれど、これとても何処まで分かってもらえるものか自信がない。
原型をとどめないほどの赤入れ(修正)をほどこし、恐るおそる送ってみた。返ってきたご返事が「よくここまでやってくれた。お陰でずっと読みやすくなった。これなら今の人たちにも読んでもらえるでしょう」。いやー嬉しかった……。
しかし、本に仕上がる前にご他界の報に接し残念でならなかった。現在の伸哉宮司の序文も入り素晴らしい本になった。いまや明窓出版ロングセラーズの1冊となっている。


心のオシャレしませんか 〜お母さんのためのポップフィロソフィー〜

 今となっては相当に旧聞に属する話になってしまった。明窓出版の旗上げ間もなくのことだった。硬骨評論家である坂口三郎先生の本を出したところで丸山敏秋氏(倫理研究所の現理事長……会長かな?)からお声がかかった。氏の言葉として、坂口先生を取材し「致知」の誌面を飾る。その時に先生の本を紹介しましょう。とまあ、こういう縁だったと記憶している。
それが終わり、時々お会いする間柄になった。ある時「書きためた原稿があるんだけど読んでみますか?」「読んでみましょう」すぐに預かった。
 今もそうだが、その頃はもっと厳しい明窓出版の財政状態だった。「売れるかなー」何日か迷った。2〜3人の知人にも読んで貰った。おおかたの賛同は得られたものの、もうひとつ踏み切れない。
 そんなある夜、大分県の十菱 麟先生(翻訳家であり、超越瞑想法の先駆者)から電話が入った。「いやー、素晴らしい原稿だ! よく手に入ったねー。少しも早く本にしなさい」。これで決まった。なんのことはない。著者である丸山氏のバックには巨大な会員さんが居るということをすっかり忘れていた。あっという間に3〜4刷りという有りがたい成果だ。とはいうものの「バックを期待しないでやってみたい……」との著者の言もあってか10万だ20万だとまではいかなかった。しかし明窓出版始まって以来のヒットであることは間違いない。


意識学

「ホームページで見たけど、明窓出版はこのての本は出版しますか?」「どんな本でしょう」「時々東京に出るから、一度寄ってみましょう」こういったやりとりだった。翌日にはもう著者の久保寺先生がご夫婦で来社なさった。正直お話がよく分からなかった。分からないながら分かったことが一つあった。「人は転生する。ただ、前世の記憶を完全に忘れてしまっている。なぜ前世のことを憶えていないかというと答えは簡単。前世に生きているとき、その記憶を来世(つまりこの世)に持っていけるような生き方をしなかったから」。
のめり込みそうになるのをぐっと押さえ、まずは原稿を読んでからにしましょうということで、お預かりした。社で読んでいるうちにあっという間に退社時間になった。続きを読みたいばかりに持って帰った。結局、記憶を来世に持っていけるような生き方……については分からずじまいだったが、全体を通して「意識」の扱い方をいかに大切にするべきかを懇切に説いている。「これだけでも出す価値がある!」今度はこちらから太田市のご自宅にお伺いした。打ち合わせが終わり、帰りしな先生の言葉に打たれた。「やっぱり何にも憶えていない状態で来世に行くようですね」
これには参った! 読者から「憶えたまま来世に行くことが出来そうだ。有りがたい」という手紙がちらほら来る。羨ましい。


  いま輝くとき

平成元年のころ明窓出版で「日本の医道」(絶版)を出版した。著者の一人である舟木先生から「今度は『精神世界をひらく』という本を自分ひとりで出したい」といって原稿(データ)をフロッピーで預かった。その頃、明窓出版はまだパソコンを扱えるスタッフはいなかった。出入りの印刷屋もしかり。せっかく預かったデータ原稿をどうするか……。思案の最中に後便で先生からプリントアウトした原稿が宅便で届いた。中から一部を抜き出してパラパラッと目を通した。なかなか鮮明に出ている。当時の女性編集長と「これをこのまま版下に使えないだろかねえ」「いいんじゃないですか」2人だけの編集会議兼、営業会議で簡単に結論が出て、プリントのまま印刷屋に渡した。
3週間ばかりして上がってきた本を見て足がすくんだ。ひどいものだった。先生にお詫びとともに相談した。会社立ち上げ3点目の本にしてこれだ。正直、会社閉鎖を考えた。しかし舟木先生はのんびりと「ま、これはこれで出してみましょう」。恥も外聞もなくその言葉にすがった。
その頃の先生は、支持者も少なく、思うように本は売れなかった。先生の支援で辛うじて赤字は免れたものの、勝手に負い目を感じた私の方からいつの間にか先生から遠ざかってしまった。
光陰矢のごとし! 平成8年の春まだき、まだあけやらぬ朝のこと、なんの脈略もなく「このままでは明窓出版の男がすたる! あれをちゃんとした本にして再発刊しよう。今の明窓出版なら、パソコンもベテランになっているし、その分印刷代も安くあげられる。仮にぜんぜん売れなくともその程度の赤字には耐えられるだろう」夜明けを待ってパソコンに向かい、無沙汰の詫びとともに思いのたけを手紙にした。先生の反応も早かった。2日後には品川で会っていた。「同じ題名ではなく、『いま輝くとき』でもういっぺん頑張りましょう」。わだかまりのない先生の言葉にほんと嬉しかった。


  星の故郷

知人の評論家K氏から「面白い原稿を書いた人がブラジルから来ている。紹介するから出てきませんか」と電話が入った。押っ取り刀で著者テッド・アライ氏の泊まっているホテルのロビーに駆けつけた。身体もそれほど大きくない人がK氏と座っていた。彼の話は私の想像をはるかに超えるものだった。なんせ人殺しのやり方を教えている人なのだから。
半信半疑で聞いている私の心中を察したのか、テッド・アライ氏は自室から小型シネマ一式を持ってきて彼の実践現場を写して見せてくれた。まるで映画を見ているような迫真的な場面の連続にただただ息を呑む思いだった。渡された原稿を読んでこれまた驚いた。殺しの教師とはおよそ裏腹の、冒険あり、ラブロマンスありの、まさに一大スペクタルである。テッド氏の描写力のすさまじさに「絶対にアマゾンの星を見に行くんだ!」と私は決心した。また、全体を流れるエロチシズムにも圧倒された。
本屋さんに並んでから1ヶ月以上たった頃だったろうか。いきなり日本図書館協議会から「優良図書選定」の通知がきたには度肝を抜かれた。恥ずかしながら、その文芸的価値に気づかず、ただただ極上のポルノ小説という受け取り方をしていた自分に人知れず顔が赤らむ思いをしたものだった。



  三峡ダムと住民移転問題

以前、ある講演で「どうして郵貯はいけないのか」の著者の講演を聴いた。正直その演題はそれほど心に残らず、つぎにマイクを握った鷲見一夫横浜大学法学部教授の話に引き込まれた。終わるのを待ちかねて自己紹介の後、原稿依頼をし、1年後には「世界貿易機関(WTO)を斬る」を出版した。今度はその鷲見先生(その時は新潟大学の教授を奉職なさっていた)のほうから電話で「三峡問題は知っているよね」と畳み込まれた。勿論知ってはいたが、マスコミからの知識のみのうすっぺらな知識ゆえ、しどろもどろの応対だったと思う。「現地にも行って来たし、中国で発禁になった三峡問題の本を日本語に翻訳した中国人著者との共著だ。これが出るとすごいことになるよー」聞いているうちに身体が熱くなったのを憶えている。
中味に魅せられた私の考えたタイトル(だらしがないけど忘れた)に「そこまで言ったら共著者の胡さんが帰国出来なくなるよ」と一蹴された。「ま、それにしてもこれほど大きな問題を抱えた以上、いつ暴動が起きるか予断を許さないことになった。この問題を少し踏み込んで知りたいという読者にとっては現在この本しか知るすべがないからね。三峡問題に限らず、これからのダムについてのバイブル的な存在になるだろう」
先生の紹介で共著者の胡さんにも会った。穏やかないかにもインテリ然とした女性だった。この人があんな過激なことを……と思った。発刊前の反響は、先生の預言どおり、大学生や、大学生協の書店から大きく返ってきた。「活字離れが云々されているけど、そんなことはないなー。国際問題にしろ時代を知るために、読む人はちゃんと読んでいるんだなー。そういえば『世界貿易機関(WTO)を斬る』も増刷になったことだし……」との思いを強くしたものである。


  単細胞的思考

知人の新井氏(画家で故人)から「よかったら読んでみたら……」とてかなり古い、だけでなく何度も読み返したと思われる本を手渡された。相当に分厚い本だ。正直気が重かった。
1週間ほど経ってから、しりごみする気持ちにむりやり活を入れ、読み始めた。結果は、完全に打ちのめされてしまった。読み進むうち、息は弾むやら、身体は熱くなるやら、無性に喉が渇き、水をがぶ飲みしながらの読了となった。
奥付を見ると、なんと! 昭和44年(1969)となっているではないか。「こんなに古いのに、こんなにむちゃくちゃ人を感動させおって……ちきしょうめー」
読み終わるのを見はからったように新井さんが来社した。「凄いでしょう。明窓出版で復刻するなら著者に頼んであげようか」「お願いします、お願いしますよ」きっと涙声だったと思う。
一つ大問題にぶちあたった。なんせ66万文字もある本のことだ。タイプを外注に出すと60万円はくだらない。恥ずかしながら決断にうろうろした。
そんなある日、上野先生の講座が東京であった。胸を焦がして集まった面々15名。その中の1人が恥ずかしげに口ごもりながらも、私にとって、晴天の霹靂ともいうべきことを話し始めた。
「『単細胞的思考』を10回ちかく読んだがまた読み始めたところ、今度は、ただ読むだけでなく、ワープロ打ちしながら読んでみようと思った。これはこれで僕にとっては堪らない楽しいことだった」と。
会が終わるのを待ちかねて私は彼に必死にすり寄った。彼の快諾を得て、無料でデータの提供を受け、この本は永い眠りから覚めた! 発売数ヶ月で、こちらも思わず嗚咽がこみ上げるほどのハガキを多くの読者から受け取った。
最後になったが、きっかけを作ってくれた新井氏の絵をこの本のカバーに使い、これも大喝采をうけた。今でも思い出して胸が切なくなるのは刷り上がった本を見せる前に彼が帰らぬ人になったことである。

  宇宙心

ある朝、ちょっとばかり重い宅便が届いた。開けてみると知らない人(A・T師)からの原稿だ。よくあることと思い同封の本を手に取ってみるとサンマーク出版から出た彼自身の著書である。ところが原稿はと見ると、鈴木美保子著となっている。「著者はアリゾナに住んでいるので、出版社捜しができない。そこで私が彼女の代理で貴社に送った。読んでみてほしい」。とのメッセージが同封されていた。虫の知らせというべきか。抱えていた仕事をすべて後回しにして原稿読みに入った。感動を超えた高ぶりに包まれた。発刊後たくさんの読者からいただいたものと同じ考えに捉えられた。「こんな人がほんとに居るのだろうか」と。早速T・A氏に電話し、新宿で会った。「明窓出版にどのような経緯で原稿を送る気になったのですか」と私。
「とても行ってみたかった幣立神宮に先日行きましたが、すごい神の場でした。春木宮司とも歓談でき、帰り際に宮司さんから手渡されたのが『青年地球誕生〜いま蘇る幣立神宮〜』で、これがまた素晴らしい本でした。出版社名をみると明窓出版だったので、『よし、ここに送ってみよう』というのがいきさつです。いかがですか?」。一も二もなく本にすることにした


  神とともに第1集

「宇宙心=明窓出版刊」の編集が完了し、それを持って文中に書かれているS師に見て貰うべく沖縄に飛んだ。そのときS師に言われた「神立の書いた原稿も見てもらえないだろうか」が、暖かく胸に響いた。別室で神立さんに預けられた原稿はずっしりと重かった。ただ、沖縄ではS師との交流に集中し、とても原稿読みに入る余裕はなかった。
  帰京し、読み始めて「宇宙心」とは違う意味で魂が消し飛ぶ想いに打ちひしがれた。これまでの神様とはまるで違う神様がそこにはいた。私の神様はどこかへ消えてしまった。「神様ってそんなことを考えているの? 神様って後悔なんてするの? 神様って、親の神様に咎められて、ご免なさい……なんて謝ったりするの? 」次からつぎに分からないことが書いてある。何度も途方に暮れた。しかし、やめちまおうか……と思ったことは一度もなかった。
著者の神立さんと打ち合わせ(というより、煩がられるほど教えて貰う)を、いつもの2倍も3倍も重ねて、それでも半信半疑で発刊に漕ぎつけた。もの凄い反響に目が回った。



地球大改革と世界の盟主

船井幸雄会長と池田邦吉先生の対談本「あしたの世界」の取材をするため船井事務所に行った。初めてお会いした会長は、予想と違いまさにざっくばらんなおじさんという印象だった。対談が終わりオフレコとなった。会長の既刊本ですでに知っていることでも、ご本人の口からじかに聞くと、これを“言霊”というのだろうか、すごい真実みをもって迫ってくる。
いよいよおいとまをする段になってふと、「そうだ、僕のところに原稿が入っている。まだ読んでいないけど、今日か明日は読もうと思っている。面白かったら明窓さんに振ってあげるがやってみますか」いきなりのお声掛かりに少々とまどった。
驚いたのは会長の律儀さだ。きっかり2日のちに、おんたい自ら「面白かった! やった方がいいと思うよ」と電話を下さった。
著者の白峰由鵬先生に「明窓出版でやります」とファックスした。例によって赤入れをしようと思っていたが、すかさず先生から釘をさされた。「僕の文章はこのノリだから、持ち味を活かして本にして下さいね」。すんなり素直に従う気持ちになった。
結局この本も、著者に1度も会わないまま本になった。いい加減な出版社と思っておられることだろう。しかし、その後たてつづけに2点、明窓出版から出していただきどれも版を重ねている。有りがたいことだ。

うちのお父さんは優しい

だいぶ前の話(1999年)なので何の用件だったかよく覚えていないが、莫邦富さんという人が来社した。ひとわたり話が終わった頃、「鳥越俊太郎さんから預かっている話だが、明窓出版さんで本を出してもらえないだろうか」と振ってきた。鳥越俊太郎といえば「ザ・スクープ」の名司会者として、つとに有名なキャスターである。思わず膝を乗り出して、「どんな内容ですか」「少し前、大きな話題を投げかけた『金属バット殺人事件』というのがあったのを覚えていますか。東大卒で、大手の出版社の編集長をやっていたお父さんが、我が子を金属バットで殴り殺した事件です。それを僕の友人であるプロデューサーの後藤和夫さんと鳥越さんが共著でもって書き上げた力作です。褒めすぎかもしれないが上質の裁判劇といえます」すこしばかりミーハーの私はすぐに絡め取られてしまった。ただちに莫さんのオフィスで後藤さんに会い、原稿を受け取ったのはいうまでもない。
随所に出てくる中味の重さに押しつぶされそうになりながらも、鳥越さんや後藤さんに、ねぎらわられながらなんとか校了に持ち込んだ。
後日談として、これの出版祝賀パーティーは楽しかった。テレビでおなじみの美人アナウンサー、これもチャーミングなキャスターのお嬢さんたちに取り囲まれて(といっても、取り囲まれたのは鳥越さん)すっかり夢うつつ……。
印象に残ったのが後藤さんだった。なんとなく態度がでかい。それも作ったでかさじゃない。周り(特に女性)の人たちがそれを当たり前として受け止めている。私の一人合点ではあるが、プロデューサーってえらいんだなーと思ったと同時に、いっさいそれをそぶりにも出さない後藤さんの人柄にもいささか感じるものがあった。


ことばの表情こころの情景

明窓出版のシリーズ本『窓』第2集の編集の際、長いこと口説いていた大女優高峰三枝子さんご本人から返事の電話入った。「どうしても取材を受ける時間がとれません。あなたの方さえよければ、ハワイロケに行くときの空港での待ち時間の間でしたら大丈夫ですけど……」やむを得ない! それで決めてもらった。
成田空港のVIPルームでお会いした三枝子さんは美しかった。かぶっていたつば広の帽子から垣間見せる夢見るような眼差し(表現の陳腐さに呆れてください)に幻惑されながらの取材やく40分。その時のオブザーバーが本書の著者、長谷川訓子さんである。時間が迫り三枝子さんが搭乗口に通じるドアから出ていくときに訓子さんを手招きし小声で何か言った。聞くともなく聞こえてきた言葉「今日の取材で何か不足があってあの方から連絡があったら、ちゃんと聞いてあげてね」彼女の気配りに感激した。
それから4年ほどが瞬く間に過ぎ去ったある日、訓子さんから「日頃思ったことを書き留めていたものがだいぶたまったので読んでもらえないだろうか」横浜の駅前ホテルのロビーで会って原稿を渡された。その場で15〜6ページ読んでみた。辛口あり、憂国あり、憧憬あり……まさに珠玉のエッセイといえる内容だ。天国の三枝子さんが導いてくれているのかもしれませんね。2人の意見の一致をみてその原稿は本になった。


太陽の秘薬春ウコン

一時、西式健康法なるものを知り、本にしようとした。その時大牟田市の高田社長と知り合った。
彼の述懐を聞いて「こんなことも世の中にはあるんだなー」との思いを深めたところで、彼の親友がやっている、西式を取り入れた断食道場を見に行かないか……と誘われた。
何にでも首を突っ込みたい私として、いなやはない。
着いたところは阿蘇山の麓にあるモダンな建物だった。代表に紹介され、断食に入る前と出るときに摂取する“補食”に春ウコンを併用するという話もうかがった。そんな最中である。なんとなく冴えない感じのずいぶん痩せた男が一人、のっそりと部屋に入ってきた。話に入ってくるでもなく、しばらく私たちの話を横で聞いていたが、そのうち、また、のっそりと出て行った。
代表が「あの人は、末期がんで、水も飲めない状態になってからうちへ来たのですが、翌日からどうにか水だけは飲めるようになっているのですよ。ま、気休め言っても本人には通じません。いったいどうなるか見守っているところです」とひとりごちた。
高田社長は、脳梗塞で倒れ、医者に見放されたが、その断食道場での養生と春ウコンで全くの健康状態に復活したという話を帰りの機中で聞かせてくれた。また、それまでのアパレルビジネスを後進に任せ、第2の人生を春ウコンに賭けた社長の意気込みに打たれ、私も、慣れない健康食品の本作りに邁進することにした。


天山の烏

明窓出版で『縄文杉の警鐘』を出した。著者はかつて朝日新聞の編集委員をした三島昭男先生である。この人、えらくカリスマ性のある人で、『縄文杉の警鐘』を読み、感激した、じっとしておられないと言って急激に集まってきた人の数は並でなかった。
“人心緑化推進機構”と銘打った組織があっという間に結成された。10年以上前から三島先生の思想に傾倒し、行動を共にしてきたという人が組織の常務理事に就任した。フジテレビ出身の人であり、宣伝には一家言ある人と見受けられた。親しくなるにつれ、彼の親友の山本という人の父君が、シベリア抑留者であり、抑留生活中の手記を想像を絶する苦労で日本に持って帰った。それを、読みやすくまとめてみたのだが読んでくれないだろうか……という話を持ちかけてきた。
  正直いってそれほど興味は持てなかった。しかし原稿を読んでいるうちに、これは! と、座り直す場面、止められない涙にくれる場面にしばしば見舞われた。
とどめは、「必要なら、瀬島龍三氏の推薦文を貰ってくる」との無造作な一言だった。当時、瀬島龍三といえば、彼の推薦文があるだけでプラス3000冊は固い、という伝説的な人物だった。本にした後、遺族会メンバーからの注文が予想通りあり、著者西二郎氏とイカスミスパゲティを前に二人だけのささやかな出版記念パーティーを厳粛(?)に執り行ったのが今は懐かしい。


無師独悟

多いときは4〜10組ほどの原稿が送られてくる。勿論、特に面識のある人ではない。この原稿もそんな一つだった。普通、編集者任せの方だが、その時はふと手に取ってみた。なんとなく……ほんとになんとなくだらだらと読み終わった。結局何を書いているのか分からないままに、脇に積んでおいた。ただ、悟るにはとか、悟ったらとかを書いていることだけは分かった。
一週間もたった頃だろうか「別府といいますが原稿を読んでもらえたでしょうか」と電話が入った。
「渋谷辺で一度お会いしましょうか」そう返事しながら自分で驚いていた。なんでそんな返事が口から出たのだろう……訳が分からないうちに会う場所などが決まっていき、ますますとまどいを感じていた。
ま、会うだけは会ってみようと約束の場所に出向いた。別府さんは実にさりげないおじさんだった。これを見たら「お前だって超おじさんだろう!」と怒るに違いないが。
彼と話しているうちにどんどん話が出版の方に進んでいるのを我ながらおかしい程とめられない。
結局、別に彼の強引さに押し切られたわけでもなんでもないのに本の体裁やら、タイトルやらがちゃんと決まってしまった。
出版契約書を取り交わしたとき、声を殺して彼は慟哭した。なぜか私も大泣きに泣いた。今もってそれがわからない。
ただ、ただである。『単細胞的思考』に勝るとも劣らない葉書が来はじめた。それを見てまたも大泣きをする幸福を満喫した。


どら猫おりがの忠告

明窓出版の創立時代、1年間ほど、社名は「北窓出版」だった。熱心なクリスチャンである友人に太田博也先生を紹介された。師は、死刑囚友の会のリーダーとして、かの帝銀事件において死刑確定した平沢貞通とたびたび文通をしていた。
  師の往年の名著「ポリコの町」を復刻すべく訪問を重ねていた折りのことである。「先にこれを出して見ようよ」といって脱稿まぎわの原稿を提示された。
「すごい!」と思い「やりたい!」と思った。ただ、「これは、特別のものだから1万円以下の定価をつけてはだめ」これには参った。おそるおそる「今の北窓出版ではその定価では売れないと思います」
「大丈夫、僕の弟子たちだけでも200冊やそこいらは買ってくれるから……」
その通りだった。ありがたい話だった。ありがたいのはこれだけではなかった。書店に並べるルートもない出版社なのに、どこで知ったのか結構売れた。
もう一つ、書かずにおれない後日談を聞いてほしい。ある右翼の大物(故人)に声をかけられ、パラオ共和国の大統領就任式に国賓待遇で招かれた。聞けば就任する大統領が、単なる閣僚の時代から、物心両面でえらく面倒を見たらしい。
パラオ滞在中、ほんとに国賓扱いを受けた。一両日の出発を控え、ちょっと使いすぎて懐が極度に乏しくなっていた。たまたま、顔なじみになっていた日本食レストランのママさんに1冊だけ持って行っていた「どら猫おりがの忠告」をプレゼントした。
翌朝、遅めの朝飯を食べに行ったら、目を真っ赤にしたママさんが「感動の涙と、一睡もできなかったせいで、見てよこの目」だと。びっくりしている私に追い打ちの一言! 手にした紙切れを手渡しながら「日本に帰ったら、ここに書いている人たち10人にそれぞれ送ってほしい」10万円と共に差し出した。今思い出しても目が潤む。これが私の現職への「天職意識」の持ち始めというべき一瞬だった。


  目覚め

「宇宙心」の発刊ですっかり親しくなった田中章義さんが、ふらりと来社した。手には「目覚め」の初版本を持っている。「この本の出版社は今はもう閉鎖していて入手不能です。僕の斡旋で、文庫本として他の出版社で出しているけど、この本を縁ある人に配る方たちの意見が、『配る以上、やっぱり、最初のような立派な本がいい』との声が最近とくに大きくなっている。ついては、前の出版社にも著者にも話はついているので、明窓出版で再販したらどうだろうか」二つ返事で引き受けはしたものの、一抹の不安があった。一応はすでに読んではいたものの、いざ自分のところで出すとなると、ちょっとした表現の違いや、文章の後先の順序などに私なりの希望がある。つまり編集用語でいうところの“赤入れ”作業である。著者との折り合いがつかない場合はどうするか? ま、当たってから考えよう……。田中さんが帰った後すぐに沖縄の高嶺先生に電話でその旨打診してみた。「一度は見せてもらえるのなら結構ですよ」
それからの編集作業に精を出し、著者の了解を得て本にしたのが約2ヶ月後だった。別に宣伝をしたわけでもないのに、どこでお知りになったか、読者から電話での注文が続いた。「宇宙心」の増刷分にも、本文中の「目覚め」の説明箇所に、明窓出版の名前を入れる喜びを噛みしめた。


 後醍醐天皇 
ものすごく暑い日だった。初めて聞く名前だった。「高坂が、明窓出版から許可なく本を出されたといきまいている。ついてはそちらの言い分もあるだろうから、一度会ってみたらどうだろう。僕も立ち合うから……」と電話が入った。
著者さんとの不和は決して褒められたことではないし、聞けばその人は日大の教授をしていたこともあるという。
すぐに会うことになった。高坂さんとはすぐに話し合いがついた。もともと双方の思い違いに端を発したことだから、第三者を交えて感情抜きの話をすると手打ちも早かった。それから半年、「竹内文書がらみで後醍醐天皇の原稿を書いたので、読んでもらえないかね」いそいそと出かけたのはいうまでもない。その時の先生の顔はとても輝いていた。聞くほどに、編集者としてあるまじきことながら、読みもいない原稿を前にして「やりましょう」即答してしまった。竹田先生ご自身も思い入れの強い原稿だったらしく「僕も半分くらいは負担してもいいから、読売の全国版に広告を出してみようよ」これにも易々として従った。先生亡き今も注文が続いている。


 ヌードライフへの招待

見慣れないメールが入ってきた。「ヌードライフへの招待」という原稿を書き上げましたが本にしたい。という趣旨だったと記憶している。若干(?)の助平ごころも手伝って「読んで見ます」とリメールした。小田原に住むという彼と新宿で会い、何とはない雑談の中で、彼の「大手の出版社と決まるところでしたが、そこの編集方針はだいぶエッチ方向に持っていこうというところが見えてしまったのでお断りした」という言葉にかえって刺激を受けた。聞けば、すでにある程度の会員組織もできており、定期的にさる場所に集まり、ヌードライフを楽しんでいるとのことだ。「僕も出席してみたいけどこの次の開催日には誘ってくれますか」思わず本音が出た。原稿を見て、確かにヌードライフへの先入観は根底から変わってしまった。そのせいか、とっくに出版した今日、彼、夏海さん(著者)の主催するヌードライフを楽しむ会への出席をいまだ果たしていない。


 縄文杉の警鐘

「『養殖新聞記者の実態』という原稿を書きたいという人がいるけど興味ない?」T氏からお声がかかった。そのての本だいすき人間の私として、見逃しては罰が当たるってものだ。彼の後について光が丘に住んでいる著者を訪ねた。
私らの顔を見るなり、「まずこれを聴いてみてほしいんだ」と言いながらやおらコンポのスイッチを入れた。流れてくる「縄文杉」の歌声に聴き入るうち、溢れてくる涙がどうにも止まらなくなった。「こりゃなんだ!」と思いながらわずかに残った理性でもって、T氏を横目で見た。彼も滂沱たる涙目を隠しもやらず無我の境地そのまま。
曲が終わって、恥ずかしげに目をしばたたいている私に「これから書く本より、もう8割がた上がっているこれを本にしてほしいんだよね」と原稿を渡された。タイトルが「縄文杉の警鐘」とある。「うーん」思わず唸った。世界遺産に登録されたばかりの縄文杉……。いつものことながら、「これは樹霊の導きか──」との思いが脳裏をよぎった。
NHKの専属カメラマンだった人が、縄文杉・屋久島にはまってしまい、そこに移住してしまったという日下田さんが撮った縄文杉の会心作を著者の口利きでカバー写真に提供して下さった。ちょっとくらいが、その分、荘厳な感じがよく出ていると思う。


 卑弥呼と21世紀をつなぐ宇佐神宮

「卑弥呼に関心はありますか?」そう問いかけるIという人から電話が入ったのが夜の9時頃だった。明窓出版で出している池田邦吉師が大好きだという。「この人の本を出している出版社だったら絶対大丈夫……ということで、お宅を推薦したけど、ちょっと本人の話を聞いてやってくれませんか」「???」結局著者本人と話し込んでしまい、原稿を送ってもらうことになった。

原稿を読んでみて、卑弥呼が宇佐神宮のご本尊とは本当に驚いた。原稿にある数々の事柄をこの目で確かめたくて、本の売れ行きのお願いをかねて飛行機に乗った(我ながら動機が不純)。
有名なマディソン橋と同じ作りの“呉橋”も視た。歴史で習った以外の衝撃的な事実も知った。そしてもっと驚いたのは、若い男女の参拝客がいっぱいだったことだ。一泊した夜の夢で卑弥呼が「よくぞこの本を出してくれました」とでも言ってくれたら当方としても元気いっぱい……ということだろうがそうはならなかった。
しかし、「宇宙心」の時のようにマリア様からお礼を言われたことを思い浮かべながら、もしかして今度も……とかすかに期待をつないで寝に就いたものではあった。


心のオシャレしませんか

いまは亡き坂口三郎先生を取材し、それを雑誌「致知」に掲載したことから先生、インタビュアーである倫理研究所の理事長(当時はそこの一研究員の肩書きだった)、明窓出版の和ができあがった。それまで、著者丸山敏秋氏は倫理研究所の出版局からのみ本を出していた。
時には外部の出版社から出すことの意義があったのだろう、ある日、明窓出版に口がかかった。
百万人以上の会員を擁する組織をバックにした著者の書いた本だ……。なんぼ売れるかおそろしー……と欲をかいたのが今でも恥ずかしい。著者は、たんたんと「内部的な宣伝はしないからどれだけ売れるでしょうねー」との託宣だった。いささか拍子抜けの感はあったが、原稿の素晴らしさにそこは目をつぶった。
もう一つ「よかったなー」と思えることは、著者の強い要望で、これまた素晴らしい絵描きさんに出会い、優雅きわまりないカバーができあがったことである。
いい本は売れる。この本は今も明窓出版におけるロングセラーズの地位を保っている。


 華やかにたおやかに

取材で京都の冷泉家に、ご亭主の冷泉貴美子さんに会いに行った。終わったその足で、かって電話の依頼のみでエッセイ集『窓』に寄稿して下さった池坊保子先生に無性に会いたくなり、アポイントをとった。閑静な住宅でお会いした先生はあでやかでたおやかで美しかった。すっかり当てられてしまい、しどろもどろで単行本の原稿依頼をした。
国会議員をなさっている今より、ある意味もっと有名だった先生はおっとりと「どんな原稿がいいのですか」「先生の場合、京都の風物詩的なエッセイが、読者にとって読みたい本になると思います」「それじゃあ京都の雑誌に出してきたものと、これから書くものと半々ぐらいなら時間を見つけて書いてもいいですよ」正直、だめもと精神で訪問した私としてはほんとに嬉しかった。
カメラを向ける私に「ご一緒に写りましょう」とお手伝いさんを呼ばれ、何枚も写って下さったお心遣いに感謝しながら、より一層つよいファンになった。


  世界史の欺瞞

今となってははっきりと覚えてはいないが、中野ブロードウエイセンターにあるルノアール2階でちょっとした講演会があった。その時隣り合わせに座ったのが著者の藤澤氏だった。彼の話が面白くて、すぐにエッセイ集「窓」の原稿を頼んだ。住まいが杉並区とはいえ、明窓出版とは近いせいで、打ち合わせをかねてよく来社するようになった。
そんなある日、「ブリタニカは、天下の偽書という事実を知ってる? 」と訊かれ目を白黒している私に向かって滔々と彼のコメントが続いた。「しまった! テープの準備をしてから話を聞けばよかった」と臍を噛む思いをしたが後の祭り……。あきらめ切れず「今の話を中心に一冊、本を作ろうよ」と水を向けてみた。それからの彼とのやりとりは大変だった。なんせ私にとって、これまでの常識をはるかに超える話ばかりなのだ。これまで、英語圏の常識(うそばっかり)にどっぷりと浸かっていた私の非常識ぶりをいやという程思い知らされた原稿だった。
情けないことに明窓出版の販売力の弱さがもろに出て、ちっとも売れず著者には迷惑をかけた。しかし、人生は長い! これからも売っていくぞー。


 後に続く真の日本人へ

縁あってこれの原稿を預かった。何度も経験していることながら、大勢の著者が書いた原稿というものはとても難しい。丁度手いっぱいの時だったので、これの整理を外部の契約編集者(韓国人女性)に任せた。二日後に彼女からいつもと違うトーンの声で電話が入った。「とても私にはできません。読んでいるうちに吐き気がしてきちゃって……」ま、確かに戦争賛美ではないけど、かつての朝鮮を占領した記事は無いが、南方戦線での激戦の模様は、臨場感あふれる記述が目白押しだったと思う。それでも彼女にとっては、忘れようとしていた古傷が痛んだのだろう。やむなく了承した。ところが、である。代わりにと彼女が推薦してくれた編集者はまだ30になったかならないという若い男だった。やりとりが進むうちに分かってきたことだが、そんな彼女の推薦してくれた編集者としては意外としか言えないほどのこの原稿への惚れ込みようだ。タイトルにしても、最初は、『風化させてはならない大東亜戦争の思い出』だったのだが、彼の強い要望でこうなった。
この本のK氏は「できたら少しも早く本にしてほしい。執筆者全員が高齢なので遅くなればなるほど本が出来たとき見せてあげられなくなるから」焦燥感をこめて言われる。


 北朝鮮と自衛隊

週刊大衆の記者さんと知り合った。数日して「ちょっとやばい内容かもしれませんがけっこう売れると思いますよ。著者はもと自衛官で、諜報関係部門にいた人だから」どんな本かと思ったら、北朝鮮についての本だそうだ。「そいつはおもろいやんけー」ま、読んでみましょう。すぐに原稿を送ってもらった。何本かの手持ち企画をさておいて、まずは読んでみた。「うーん、ちょっとやばいかなー」一瞬そう思った。しかし、この程度(どんな程度かな?)のことでびびっちゃ男がすたるとばかりに踏み切った。
赤入れしたものに著者の了解もとった。スタッフに校正うちを指示し、一見順調に進んでいるかに見えた。突然スタッフ全員(といっても3人)から「こんな危険な本を出版して、工作員からテロ行為を受けたらどうすればいいのでしょうか、怖くて仕事を続けられません」顔を見たらまじ真剣だ。困った! とはいえ、ここで引き下がっては………………。やっぱり困った。ふと閃いた。自宅に去年読んだ、脱北者が書いた『』の上下巻があったっけ。これだ! と思い、それを手に彼女たちを説得した。「この本は2年ほど前に発刊されたものだ。相当に話題になりベストセラーズにもなったが、何の問題もなかった」。
疑わしげな顔をしていたが一晩かかってほぼ読んだあと、きまり悪げにパソコンに向かっている。ブーイングは解けたようだ。その本に比べてたいしたことがない内容だったせいか、売れ方もたいしたことはない。ただ、ロングがかった売れ方はしている。


 20世紀分析

『心のオシャレしませんか』の“発刊秘話”で書いた坂口三郎先生の著書『現代文明の解剖』を金沢のK氏から手渡された。読み進むうち、『単細胞的思考』とは別の感動に掴まえられた。巻末に「こんな昔にここまで的確に時評を書いていた人がいるとは……」と嘆息まじりに野坂昭如氏が選評している週刊文春記事コピーが挟まれているのを見て矢も盾もたまらずK氏に電話で著者に会いたい旨を懇願した。紹介されて、復刻版の出版希望を述べる私に坂口先生は鷹揚に「それは嬉しいねー。しかし、その前に、いま書きためている原稿が4本ある。そいつからやってもらえんかなー」直ちにそれは本になった。うち1本は『世界学の哲学』と銘打って都営地下鉄全線の中吊り広告や、読売の全国版等と宣伝に全力疾走したが、結果は惨憺だった。今度こその思いをこめて先生にこの本の原稿をもらった。ただ、これの打ち合わせの頃から先生の体調が目に見えて不調になった。先生が帰らぬ人となったのは発刊後半年あまりたった頃のことである。


 猫はとっても霊能者

あるパーティーの席上で、主催者が「ちょっと紹介したい人がいる」と温厚な感じの紳士を連れてきた。開口一番その人は「僕の義妹はオーラが見えるらしく近所ですっかり評判になっている」今と違いその頃はまだオーラなんてほとんど知られていないし、うさんくさいものだった。ただ、私のアンテナにはちゃんと引っかかった。会ってみたいですねーという私に「そう言うと思ってました」。その場で彼は彼女に電話で、私の訪問する日時を決めてくれた。彼女の住まいは小諸だ。そこで会った彼女は主婦にしてはちょっとあでやかな感じを持った女性だった。オーラの話はそっちのけ、猫のオカルトパワーで話は持ち切りだった。「全体として暗い内容ではあるけど十分に本になる」と思い執筆を依頼した。このときは、手書き原稿をタイプうちしてもらう外部のスタッフが「夜、恐ろしくて一人でトイレにいけなくなった」というハプニングが起きたり、感想を求めて事前に原稿読みをして貰ったこれも外部スタッフが2〜3日寝込んだなんてこともあった。
予想通り「ちょっと暗すぎる」とか、「気持ち悪い」との読後感が寄せられた。しからば……とて、『猫はとっても霊能者〜謝恩編〜』として、今度は5人の著者にたのみ、「猫をかわいがり、だいじにしたお陰でこんな素敵なことがあった」という本を作ろうと思っている。心ある人は原稿を書いて下さることをここでお願いする。


  神様に助けられた極楽とんぼ

宅便が持ち込んだ原稿に添えられている手紙は、相当に焦燥感を漂わせていた。かなりあちこちの出版社に持ち込んだらしい。ご多分にもれず色よい答えはゼロ……という。「このご時世ではなー」と思いつつ、それでもふと読んでみる気になって、編集者にいく前にざっと目を通してみた。
臨場感があり、けっこう面白い。しかも主人公に語りかける神様のなんと人間くさいこと。加えてすべては実話だとのこと……。「これが実話なら、売れ行きも、んじゅう万冊単位はいくな」我ながらさもしいことだ。
著者に電話した。「共同出版なら、お話を聞かなくても結構ですから」著者さし迫った返事だ。「そうじゃない。ま、いちど新宿辺でもお会いしましょう」聞けば著者もかなり神様の言葉を信じている様子だ。そりゃそうだろう。彼自身の大腸がんを見事に治癒してくれた神様だもの。話を聞いているうちに当方もすっかりその気になった。
「明窓出版一世一代の営業をかけて紀伊国屋新宿本店の1番いいところに平積みでおいてもらいましょう」固く手を握り合い、前途を祝してトマトジュースで乾杯した。


  強い頭 速い頭

  時どき出席している「瞳会」という会がある。この会は実に多士済々というべき人々が集う。以前、「持っているだけで奇跡が起きる」の著者ともこの会で出会った。
ある日、席上、O氏が「僕の知り合いの西澤先生が石原慎太郎都知事に請われて、こんど創立される首都大学の学長になる。石原慎太郎氏に『私がもっとも尊敬する先生』と言われている人です」と発表された。驚いた私は直ちに氏の隣に席を移し、「O先生! 僕、西澤先生の本を出したい!」「ああいいよ」なんとまあ軽いご返事……。「こりゃダメだ」内心いささかの失望感を抱きながらも「ほんとにほんとにお願いします」
その後、案の定、お会いしても何のご挨拶もなし。やっぱりダメかあ……。
ところがところが……である。ある夜いきなり電話がかかってきた。「Oだけど、西澤先生がいま、都内のホテルに宿泊している。話は通しているから電話してみたら?」寝耳に水とはこのことか……。
電話にかじりつきルームナンバーを告げる。聞こえてきた野太い声にいささか戸惑いながら、生来の厚顔ぶりを発揮しつつ執筆依頼をした。
「ああいいですよ、Oさんから聞いています。やりましょう」いやー嬉しかったー。まさにものは言ってみるものだ……との感を深くした。

 


 

   

 

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