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小さいころ、「『こころ』ってどこにあるのだろう? どのあたりにあるのだろう?」と友だちとはなしあったことがあった。
 あるものは、胸に手を当てて、このあたりにありそう、あるものは、こころの中を訴えるのは、考えがおもてに出てくるのだから、考えるところ、つまり頭の中にあると……。
 私も気持ちの上では、胸のあたりにあった方が、よさそうだし、科学的には頭脳の中に存在するし、このときのはなし合いは、結局、頭の中にあるのだという結論に落ち着いた。「こころ」に位置はないという人もいるし、いたるところにあるという人もいる。こころは、はたらきだから、目に見えないし、形も位置もわからない。いま、「こころ」がもっとも病んでいる時代、暗いことばかり多発、「こころ」を育てることを忘れている。

前書き 目次 本文70%

あとがき 感想BBS 本の誕生秘話 著者profile
Copyright (C) 2007 明窓出版, All rights reserved

































   推薦の言葉
●●●●●推薦の言葉の中身●●●●●

































  はじめに


 小さいころ、「『こころ』ってどこにあるのだろう? どのあたりにあるのだろう?」と友だちとはなしあったことがあった。
 あるものは、胸に手を当てて、このあたりにありそう、あるものは、こころの中を訴えるのは、考えがおもてに出てくるのだから、考えるところ、つまり頭の中にあると……。
 私も気持ちの上では、胸のあたりにあった方が、よさそうだし、科学的には頭脳の中に存在するし、このときのはなし合いは、結局、頭の中にあるのだという結論に落ち着いた。「こころ」に位置はないという人もいるし、いたるところにあるという人もいる。こころは、はたらきだから、目に見えないし、形も位置もわからない。いま、「こころ」がもっとも病んでいる時代、暗いことばかり多発、「こころ」を育てることを忘れている。     後略   

























       目 次


    ことばの表情、こころの情景 \\\\\\ 目 次

  ○ はじめに ………… 6
  ○ 雑 草 ………… 8
  ○ 生け垣 ………… 13
  ○ 電車の中 ………… 17
  ○ 観 劇 ………… 24
  ○ うたを聴き うたを歌う ………… 30
  ○ つきあい ………… 38
  ○ 相手の身になって ………… 43
  ○ 友だち 友人 知人 ………… 51
  ○ にんじん ………… 56
  ○ 本を読む ………… 61
  ○ 育てる 教える 学ぶ ………… 66
  ○ ことばの表情 こころの情景 ………… 77

  ○ おわりに ………… 103





























   雑 草


 私の住んでいるところも駅から並んでいた木造家屋が、ビルに建てかえられている。
 従って土の部分がなくなり、道路とビルのすきまのわずかな土の中から、一列に雑草が十センチほどの高さで生えている。道路に面しておかれた自動販売機の前のコンクリートがひび割れて、ほんの少し土がのぞいている。そんなところにも雑草が芽を出し、元気に育っている。ある日、そこを通りかかると、ビルの持ち主が、いとおしそうに、雑草に手を触れている。乾いた土にジョーロで水まで与えている。いつも庭の草とりに悩まされている私なら、きっとなんの考えもなく、雑草をひき抜いてしまうだろう。私は、思わず、声をかけた。「草を抜かないんですか」
 彼は、こたえた。「建物のまわりに全く土がなくなり、雑草さえ生えない。緑のないさびしさを感じていたところへ、幅五ミリほどもないわずかな土をよりどころに根づいて、一生けんめい緑の姿をみせてくれている。私は、大切なものを見つけ、このけなげな姿に、こころが動かされている。抜くどころか、ときどき水をやったりして育てている。雑草の美しい緑に、こころが慰められ、そのたくましさに自分を奮い立たせているのである」と。
 私の家の庭は、春から秋、雑草の宝庫である。ここは、この家が建てられる四十年ほど前は、芋畑であったとのこと、栄養分を含んだやわらかい黒土であるから、なおさら雑草が勢いよく生える。真夏の暑い中、玉のような汗をふきながら、根こそぎ、きれいにとったつもりでもまた、すぐ生える。「草が出て困る」とこぼすと、除草剤を散布すればよいと教えてくれる。しかし、近所の酒屋さんのはなしで、午前中、農道に草が生い茂っていたのをなぎ倒すようにして、車で配達に向かった。ひと通り配達を終わって、もとの道にさしかかると、除草剤がまかれていて、緑の草が赤く枯れ、蛙があちこちでのびている。その上に太陽が容赦なく照りつけている。悲惨だ。あれは、とても見るに耐えられない光景だったとはなしてくれた。  
 少し前まで緑のきれいな草が風になびいていたのに……。除草剤を散布して草の出ない土地にしてしまうと、草はもちろん、いろいろな生物も生きられない。
 このごろは、わが家の庭に、つぎからつぎへと出てくる雑草を眺めて、豊かな黒々とした土、草の生える庭があるだけでも幸せだと感じている。住んだ当初は、雑草の種類は少なく決まっていたが、最近は、森を追われた鳥たちや風に吹かれて、種が運ばれ、種類が多くなった。
 いろいろな草をとるとき、大変だなあ、いやだなあ、と思わずに、はくさ、どくだみ、かたばみ、おおいぬのふぐり、ペンペンぐさ、母子草、小さいときママゴト遊びでつかった草は、赤マンマさん、すみれさん、タンポポさんと呼んだ名前で声をかけながら、「やむを得ず抜くけれど、また、元気に出ていらっしゃい」と抜くことにしている。
 かれんな美しい花をつけている雑草は、ごく小さい一輪ざしに挿して、ささやかに食卓をにぎわしてくれることもある。
 長短さまざまにはびこっていた雑草が抜かれ、黒い土で一面おおわれた庭は、すっきりして、こころがきれいになった気分にもなる。近ごろは、近所の方が草とりを手伝ってくださって、大いに助かっている。
 朝つゆにぬれて、美しい花を咲かせるつゆくさ、この花の美しさをめでる人もいれば、農作物をつくる人にとっては、きらわれものの畑の雑草、夏の水田には、暑さの中でオモダカの花が満開、これも稲にとっては雑草、雑草は、農作業や園芸を楽しむ人たちにとっては迷惑だろうが、雑草をかわいい草花としてよろこび、そのたくましさ、力強さに勇気づけられている人たちもいる。雑草も見る側の立場によって、対する気持ちが、さまざまである。もし、雑草の世界にことばがあったら、とり除かれひき抜かれるたびに、「痛い」除草剤がまかれたら「苦しい」と叫ぶだろう。開発などで野の花もなくなっていく。見る人をほっとさせ、こころにうるおいを与えてくれる野の花、いまは野の花をあつめて売る花屋さんも出てきたそうだ。しかし、人のこころをやわらげてくれる自然の背景の中でひっそりと咲いているほんとうの野の花に出合い、ことばを交わしたい。
 華は愛惜に散り、草は棄嫌に生ふるのみなり。(花は、いくら惜しんでも散る。草はいくら嫌がられてもはびこる)道元
 こういうことばも残っているが、それぞれの思いで、雑草との対話も、ときにはしてみるとよい。




   生け垣

 わが家の垣根は、かなめもちの木でつくられていた。春と秋には、なんともいえないきれいな赤い色の芽を出し、垣根が一段と美しく感じられる。植えてから三十五年余り、生け垣のよさを保っていたのだが、秋から冬にかけて、どうしたことか、葉が落ちはじめ、道路の方に落ちた葉を掃いても掃いてもまた落ちるのくり返しである。木が枯れてしまったのかとみれば、中に小さな芽が出ているし、葉が少し大きくなると、赤い斑点が出て、まもなく枯葉になってしまう。思いきって、竹箒で葉を一度に落としてしまえば、すっきりすると、何度思ったかしれない。しかし、じっと枝にしがみついているようにみえる枯葉に目をやると、自然の力で落ちるときまで、そっとしておいてやりたいという気持ちになる。枯葉だって、自然に落ちるまで、一生けんめい生きているのだ。そのこころを汲みとらねばと、毎日、落ち葉を掃きつづける。
 駅への通り道、一度、病気で倒れたらしく歩行が思うようにならないおばあさんが、天気のよい日、右手に杖を持ち、左手で生け垣をつかんでは、休みながら、自分の家と向かい側の家の生け垣の下を箒で掃いている。
 私は、そこを通り過ぎるとき、「ごくろうさまです。ありがとうございます」といつも声をかける。「お互いさまです」とことばが返ってくる。大分ご高齢だし、その上、病気の後遺症で不自由な足になってしまい、思うようにならない足を慎重に運びながら、リハビリを兼ねて、道路の掃除に一生けんめいになっている。生け垣には、近くの自動販売機で買ったコーヒーやジュースのあき缶がさしてあることもあるし、根元においてあることもある。それらの缶を一歩一歩、足の位置を定めて、手をのばし、腰をかがめて、拾いあげている。頭がさがる。あの姿を目にした人は、あき缶を捨てたり、ごみを捨てたりしなくなるのではないか。こころ打つ教えである。
 地震対策その他で生け垣のよさが見なおされ、市からの助成金も出るのだが、土地のせまさ、生け垣の手入れなどで、緑の塀は、余り見られなくなった。私の家にしても、三十五年余り植木屋さんに手入れをしてもらった生け垣を病害などによる枯葉続出ということもあって、家の建て替えを機にとりはらってしまった。いまは、タイルの白い塀に、三本の植木という状態である。なんともさびしい限りである。
 付近を散策して、芽ぶきどきの生け垣、きれいに刈りこまれた緑一色の生け垣に囲まれた住宅に出合うと、こころがなごみ、この美しい調和がいつまでもくずれることがないようにと願わずにはいられない。
 最近は、家の内、外、塀などに色とりどりの鉢植えの花がおかれて、通る人びとの目を楽しませ、なごやかな気持ちにしてくれている。せっかくの花もこころない人によって持ち去られることもあるとのこと、怒りをおぼえる。
 生け垣のある風景、美しい緑に囲まれた家は、大分少なくなってきている。
 それでもどこかに残っている美しい緑、美しい花によって、やさしいこころが生まれたらいいなあと思いながら、道を歩く。





 始発駅で電車を待つ人の列「三列にお並びください」といっても、ラッシュアワー以外は、大体二列に並んでいることが多い。前から二番目に並んでいて、絶対にすわれると確信していたのに、ドアが開くと、うしろから押され、横にはじき出されてすわることができない。うしろにいた母親と娘がちゃっかりすわっている。その上、自分たちで前の人を押し出しておきながら、「ものすごかったわね。きちんと並んでいるのに」というのには恐れ入った。押し出された私が、母、娘のすわった前のつり革を偶然、つかまえたら、自分たちの言動が恥ずかしくなったのか、母親は眠ったふり、娘は黙って下を向いていた。
 全くすいている時間帯は、かまわないが、駅にとまるたびに乗客がふえてくる時間帯には、座席の端からきちんとつめてすわってくれたら、あとから乗る人はありがたい。七人すわれる席に、六人が勝手に間隔をあけてすわっていると、つめていただくのにも気をつかうし、「少しつめていただけませんか」と声をかけても上目づかいに無言の抵抗を示し、しぶしぶと動く姿をみるとお願いしなければよかったと悔やみながら、「すみません」と軽く頭をさげて恐縮しながら小さくなってすわる。反対に立っているつもりでつり革をつかまえるとすぐに体を動かして、となりの人にも無言で訴え、まわりの人全員が、一つの座席づくりに一瞬のうちに協力してくださって「どうぞ」といっていただくと、「ありがとうございます」とお礼をいって気持ちよくすわることができる。
 席の譲り方もむずかしい。近ごろの若者は……となにかにつけていわれる学生や若い人でもよく気がついておとしよりに席を譲る。「ありがとうございます」とあいさつして、すわってくださるとほっとするが、かたくなに拒んで、立ったまま。席を譲ろうと既に立ってしまった人は、どうしてよいかわからずせっかくよいことをしたのにばつが悪くなって、ドアの方へ立ち去る。健康を維持するために立っているとか、「つぎで降りますから……、ありがとう。おすわりください」とでもことばがあれば、まわりの人も納得するが好意を踏みにじられたようで、あと味が悪い。かたくなさ、頑固さも、ときには、素直さに変わったら、お互いに気持ちがよいのに。
 逆に前に立ったおとしよりに席を譲ろうと思っているうちに、十センチほどのすきまに黙ってぐいぐいはいってきて、となりの人を立たせて平気ですわる人、「若いのだから立ちなさい」と命令して立たせてしまう人、自分の思いのままに勝手に決めつけてしまうおとしよりには、まいってしまう。
 つぎは、新聞に載っていた記事二つ。
 四十代と思われる女性十人くらいのグループ、先頭に並んだ数人で、電車の入り口をふさぎ、車内になだれこむ。荷物を投げたり、体を倒したりして席の確保、全員がすわれたことを確かめると歓声をあげた。多くの席取り合戦をみてきたが、このときばかりは、唖然として、ことばがなかったと。
 体調をくずし、せきこんでいるおとしよりの目の前にすわっているのが夫婦とこども二人、こどもたちは、元気をもてあましている。席をかわってあげればよいのにと思っているうちに、男の子が席をはなれる。本を読んでいた父親が顔をあげ、男の子をにらむ。
 「あばれないで席をかわってあげなさい」というのを期待していたら、「だめじゃないか、走りまわってちゃ。すわってないと空いたんだと思われるぞ」こういう親が育てたこどもはどうなるのか、他人の痛みもわからず、自分勝手なこころ貧しい人間になるのではないかと。
 私たちは、グループで乗っているとき、座席がひとつあくごとに、体調をくずしている人を優先、あとは、「戸籍順に」とすわっていく。電車の中で「すわる」ということ「座席の確保」もいろいろな思いが入りまじっている。
 電車の中での会話。これもまた、気にかかる。中、高校生の車内での会話、特に女生徒の荒々しいことばづかい、わざと悪がっているとみえる場合もあるが、こころの荒れを感じてしまう。
 熟年女性の同窓会の行き帰り、車内で久しぶりに出会い、むかしに返って手をとりあってはしゃぎ、興奮したおしゃべり、グループは、たちまちまわりの人たちの視線を集めてしまう。中、高校生も熟年女性も共にそれぞれ当人たちは、自分の気持ちを素直にあらわし、楽しんだり、なつかしんだりするのだが、車内では、まわりの人への迷惑を考え、少しおさえて、さわがしくならないように配慮する必要がある。聞くともなしに、いやおうなく、耳にはいってくる会話、にくにくしげに嫁の悪口をいう姑、姑の悪口をいう嫁、はじめのうちは、小声でも、気持ちの高ぶりから大声となると聞き苦しい限り、いたたまれなくなる。この近くにこの人びとに関係がある人がもしいたとしたら、どうなるかと気が気ではない。
 これは、私の経験、家族三人で千葉から総武線に乗る。ドアのそばの三人掛けの席にすわった。船橋から四人の二十代後半から三十代と思われる男性グループが乗りこみ、私たちの前のつり革につかまって、はなしはじめた。錦糸町駅を過ぎたころから、高校時代のはなしにはいり、そのうち、東北、M県の県立高校時代のはなし、聞いているとN先生が登場してくる。四人はN先生にまつわる思い出を語り合っている。いい先生で助けられたと口々になつかしんでいる。なんとN先生は、私の叔父である。遠く離れた東京の電車の中で、目の前に親類のものがすわっているなんて考えもしないではなしたこと、いいはなしだったから、こちらもうれしくなって、ことばを交わして別れた。
 電車の中吊り広告をみながら、政治家、芸能人、スポーツマンなどの有名人のはなしは、その人の好みや批判だし、よいとか悪いとか、評判を車内でしゃべっても余り問題はないが、一般人の場合には、どこにつながりを持った人物がいるかわからない。酔っているサラリーマンから、上司や同僚の悪口を聞かされるのも耐えられない。
 悪口やかげぐちは、なかなかそうはいかないらしいが、小声ではなし合ってもらいたい。人の気持ちを傷つけるようなはなしは、周囲を見渡して判断し、会話をしてほしい。
 最近は、肩からかけたバッグ、背中のリュックサック、便利さゆえに普及してきた携帯電話も車内の人びとに迷惑をかけている。
 車内では旅のはなし、おいしいもののはなし、楽しいはなしをして、まわりの人も短い時間の中で、その楽しみを分け合って下車できたらと思う。
 電車の中には、あちらこちらに人生の風景がころがっている。迷惑になることはさけ、座席についてもお互いに助け合う。
 (人のふりみて わがふりなおせ)
 短い時間だが勉強になる。考えさせられる。

 近ごろ、芝居の観客は、圧倒的に女性が多い。かつて歌舞伎座の観客は、着物姿が多く、洋服で出かけると場違いな感じがし、気おくれしたものだが、いまでは思い思いの服装で気軽に足を運ぶ。これはよくなった一面である。
 いよいよ幕があくと、役者があらわれる。絶大な拍手で迎えられることもあるが、中には、芝居がはじまったのか、はじまらないのか、ざわめきの中で進んでいく場合もある。
 ここまでは、まだいいのだが、「役者の登場」の場面で、連れの友人にあの役者は、「〇〇屋なにがし」と説明をはじめる。うるさいと思いながら、まあまあと聞いている。とんでもない勘違いをしていることもある。連れは余り知らないらしく、「ああそう。ああそう。よくご存じで……」と感心して聞き入っている。横から〇〇屋なにがしと思わず訂正したくなるが、じっとがまん。人に説明するならそれなりに、きょうのだしものを研究してきてほしい。知ったかぶりをしている上に、演じる役者の名前をまちがって教えているのでは、なおさら始末が悪い。
 また、よくわからないのか、おもしろくないのか、退屈すると食べものを口にする。「あめ」でもそっとなめるくらいならいいが、シーンとしている中で、いちばん耳ざわりなガサゴソと音をさせながら菓子袋をとり出し、袋をバリバリと開き、とり出したのがおせんべいで、ポリポリとやり出したら、「静かに」といいたくもなる。  
 途中でトイレに立つ。おとしよりやそのときの体調で、やむを得ない場合もあろうが、なるべく休憩時間にすませてもらいたい。
 特に一番前の席から前かがみもせず、一生けんめい演じている舞台の役者の前をものおじもせず、堂々と歩いていくのには、うしろの観客は、「あなたを見にきたのではない」と言いたくもなる。久しぶりに会ったのか、友だち同志、この間、ゴルフにいってきたとか、どこそこへいって、とてもよかったなど、幕間にしゃべればよいのにしゃべり合う。
 もの音をたてたり、トイレへ立ったり、おしゃべりしたり、そんなときに限って、大体、大部分の観客がひきこまれる名場面というのもふしぎ。そんな観客をみていると、どうも見たくてきている観客ではなさそうだ。だから、とき、ところを構わずに、自分のやりたいことをあとさきの考えもなく、行動にうつしてしまうようだ。歌舞伎は、わかりづらいので、いねむりをする人がときどきいる。ただ静かにねむっているうちはよいが、スウスウからはじまって、やがて少しずつ大きくなり、さまざまな音を出す。突然、大きな「いびき」にかわることもある。観客の視線がそこにあつまる。
 前の人は、うしろを振り向く。一緒にきた人は、ひざのあたりをつつく。当人もびっくりして目をさまし、いびきもとまる。まわりの人は、笑いをおしころすのに苦労する。


 あ、ゴメンナサイ。立ち読み部分はここで終わりなんです。ここまで読んで下さって有りがとうございます。
 このあともっと面白くなりますから買っていただけるとすごく嬉しいです。 

















    おわりに


 「ことば」と「こころ」の問題に触れることをいつかは書きたいと思っていた。世の中が悪くなり、凶悪犯罪があとを絶たず、遂に中央教育審議会が、「心の教育」の必要性をとりあげ始めた。小手先の対策では、こどものこころは育たない。「いじめ」でも、「犯罪」でも、ことが起こってから、あわてて対応策をとっても、応急処置は、もはや、通用しなくなっている。
 「鉄は、熱い内に打て」(鉄は、赤熱して柔らかいうちに、いろいろな形につくりあげるところから、成長した後では、固まりかけていて思い通りの人間に仕上げられないから、純粋な気持ちを失わない若いうちに鍛練する)     後略






















 著者プロフィール

長谷川訓子

1933年 千葉県に生まれる
1951年 千葉県立東金高等学校卒
1955年 國學院大學文学部卒
1955年〜1957年 高等学校国語教師
著書 夫の追悼集「春の分かれ」 
「桜ほころぶ」
「華に魅せられて」
「ひろがり--私の卒業論文から--」






















本の誕生秘話

 明窓出版のシリーズ本『窓』第2集の編集の際、長いこと口説いていた大女優高峰三枝子さんご本人から返事の電話が入った。
 「どうしても取材を受ける時間がとれません。あなたの方さえよければ、ハワイロケに行くときの空港での待ち時間の間でしたら大丈夫ですけど……」やむを得ない! それで決めてもらった。
 成田空港のVIPルームでお会いした三枝子さんは美しかった。かぶっていたつば広の帽子から垣間見せる夢見るような眼差し(表現の陳腐さに呆れてください)に幻惑されながらの取材やく40分。その時のオブザーバーが本書の著者、長谷川訓子さんである。時間が迫り三枝子さんが搭乗口に通じるドアから出ていくときに訓子さんを手招きし小声で何か言った。聞くともなく聞こえてきた言葉「今日の取材で何か不足があってあの方から連絡があったら、ちゃんと聞いてあげてね」彼女の気配りに感激した。
 それから4年ほどが瞬く間に過ぎ去ったある日、訓子さんから「日頃思ったことを書き留めていたものがだいぶたまったので読んでもらえないだろうか」横浜の駅前ホテルのロビーで会って原稿を渡された。その場で15〜6ページ読んでみた。辛口あり、憂国あり、憧憬あり……まさに珠玉のエッセイといえる内容だ。天国の三枝子さんが導いてくれているのかもしれませんね。2人の意見の一致をみてその原稿は本になった。























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