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近親相姦(本文より)
驚いた事にフランスでは、近親相姦が非常に多いとの事です。
 これはフランスにとって最も深刻な問題の一つとして、マスコミが報道しています。1997年の1年間に報告されただけで6万5千件にも達しました。とはいってもこのようなケースは家庭という密室で起こるため、なかなか明るみに出る事がなく、実際にはこの数の何倍もの犯罪が隠されているかもしれません。
 これは思うに、先に言ったように過度のスキンシップからくるのではないかと思います。幼児の時から、親子兄弟でも抱き合う事に慣れている。特に白人の、とりわけフランス人の、子供の頃の可愛さ、美しさは例えようもない。いくら父親でも、美しく成長した我が娘を抱きしめる時など、思わず力が入ってしまうとか、そんな事から始まるのかもしれません。
 私の友人なども自分の娘(14才)を、夫と二人だけにしておかないようにとても気を使い、友達や姉妹から旅行にさそわれても、その事を理由に絶対に行きませんでした。
 近親相姦、幼児性愛、幼児虐待はフランスだけにかぎらず、ヨーロッパ全土、白人社会に多いというのもうなづけます。

ホームへ 前書き 目次 本文70% あとがき















 
         佐野杏希子 著





 パリは琥珀色





                                   明窓出版



















   推薦の言葉
●●●●●推薦の言葉の中身●●●●●

































  まえがき


 パリに住みたいと思ったのは、一七才の頃でした。
 クラスメートで、ピアノを習っていたS子と、クラシックバレーを習っていたM子、絵や本の好きだった私の三人で将来の夢を語り、
「いつか、三人でパリに住みたいわね」
「三人で屋根裏部屋を借りて、カーテンで部屋を三つに仕切って住もう」などと話していました。
 そして、私は絵、S子はピアノ、M子はバレーの勉強を続けようと、秋の日の夕方、S子の家で時のたつのも忘れ語り合ったものです。そして、夢は果てしなく広がっていきました。     後略
























           目 次


        パリ生活のスタート……12
        変りゆくパリ……19
        タイムスリップできるパリ……21
        カルチェラタン……24
        日本人が土地値を上げた……26
        フランス人は運命論者……28
        フランス人は保守的……30
        ヴァカンス……35
        人種平等の裏と表……38
        息子の通っていた小学校……39
        小学校でも落第がある……40
        テレビアニメでの悔しい思いで……41
        メトロ……44
          メトロの中は楽しい音楽会……45  
          メトロの中は人生模様……46
        パリの乞食は免許が必要……47
        自動改札……47
        パリの銀行での話……48    
        フランス人の預金感……52
        三星レストラン……54  
        小学生の息子に助けられた日々……55
          @ジプシーを追払った博史……55
          A二人組の大男からハンドバッグを守った小さな息子……56 
          B勇気ある小さなエスコート……58
        追いこされた電話(世界はまわる@)……60
        遅れていたフランスのテレビ(世界はまわるA)……61
        つぶれゆくカフェ……63
        所変われば考え方も違う\僕の妻はとても美人……67
        パリはお金がないと離婚できない……68
        無職ブランドに憧れるパリジェンヌ(世界はまわるB)……70
        パリの嫁と姑……72
        エリノアの家……73
        分かりにくいフランス人の拍手……76
        セーヌの花火……78
        ファション・ショーでの拍手……80
        美は正義、美は金なり……82
        モンマルトルの丘に表われた異次元の美女達……85
        パリのお墓はロマンテック……88
        フランス人の方が動物的……92
        近親相姦……94
        孤独な自殺……96
        パリの売春婦は公務員……100
        おつりの数え方……101
        薬の買い方……102
        フランス人の徹底ぶり……104
        美しき誤解……107  
          @フランス人は小さい……107 
          Aグルメ国のお台所は小さい……108
          Bなぜ香水が発達したか……108
          Cフランス人は字が読めない……110
          D災い転じて福となったパリ……114
        パリはやっぱりパリ……115
        英語の語源はフランス語……116
        旅をするなら\可愛いフランスの田舎……118   
        パリの建て物……124    
        日本の街は個性的……126  
        プロパガンダ……127
        横柄な公務員の体質……128 
        時として親切なフランス人……130
        フランス人は他人に干渉しない?……132
        パリで会った変な日本人……134
        パリは琥珀色……140
        ときめきの日々……145
        おわりに……156


























    パリ生活のスタート






 七月初旬の朝八時、私と息子(九才)はシャルル・ド・ゴール空港に着いた。
 トランク二つ、ボストンバッグ二つを持って、友達も知り合いもいないパリ、その上アパートもホテルも決めていなかった。でも何の不安もなかった。
 今宇宙からポンと飛び降り、生れてきたという感じ。過去もなにもなく、未来だけがそこにあるような不思議な感覚だけでした。初夏のさわやかなパリの空気と心地よい陽射し、シホンのようなそよ風が、優しく体をなでて行く。
 そんな心地よい雰囲気に暫くひたっていた。そしてふと囲りを見まわすと、大勢いた旅客たちは三々五々散らばり、いつの間にか私と息子のまわりには誰もいなくなっていた。
 フランス語も、しゃべれない私。さてこれからどうしよう……と息子を見ると、彼はすましたもの。僕しゃべれるよ、「アン ドウ トワ ラングストン」。そして機内で暗記したいくつかの単語をならべている。彼はなにも心配していない。私はそんな息子を見ながら、それじゃあまずシャンゼリゼに行こう、そこ迄行けばなんとかなる、と思いました。
 ところが、どのようにしてそこ迄行けばよいのか、またどこから出発するのかが分からない。誰かに聞きたくても、旅行者の去ったあとの空港は人かげもなく、窓口も閉められ閑散として誰一人いません。
 大きな旅行カバンを抱えて九才の息子を連れ、初めて不安がよぎり、どうしようかと思いながらそこに立っていると天の助け、三十代半ばの一人の、しかも日本人女性が近づいてきました。彼女は私に言いました。
「どこまでいらっしゃるんですか? もしシャンゼリゼ方面までなら、ご一緒しませんか? シャトルバスは二枚以上で買うと安くなるので、よろしかったら一緒に買いましょう」
 私はあまりのうれしさに、
「ええ。ぜひご一緒させて下さい」と二つ返事。彼女はハンドバッグだけ、荷物はなにも持っていないので不思議に思い、 
「なぜ、あなたは空港にいらしたのですか」とたずねました。
「実は日本からの友達を迎えに来たのですが会えなかったの。今まで探したのですが、もうごらんのように空港には誰もいませんものね、それで帰る所だったんです」
 そして彼女の案内で、無事凱旋門の近く「ポフト・マイヨ」迄着き、カフェで一緒にコーヒーを飲みながら今のパリの事情、メトロの切符の買い方、タクシーの乗り方、等いろいろ教えてくれ、日本からくる友達にあげようとしていたパリの観光の本や地図まで私にくれたのです。
 その上もっとうれしかったのは、彼女は私が入学しようとしていたもう一つの学校、アリアンス(語学学校)の学生でした。そして午後から授業があるからといって、後日の再会を約束し、住所と電話番号を残し、「もし困った事があったら、いつでも電話下さい」と去って行きました。「まるで、あなた達親子を向えにきたようね」などと笑いながら。

 時計を見ると、まだ一二時。相変わらずさわやかな空気、青い空、心地よい陽射しに、私の心はまた勇気リンリン。息子も満足そうに、バケットのサンドイッチをほおばっている。
 そして、タクシーでシャトレ(chatelet)まで行きました。というのも、これは日本で調べておいたのですが、学生用の安心なホテルを紹介してくれる案内所があるからです。
 窓口のマドマゼルはとても感じが良く、私が子供連れという事もあったのか、順番を飛びこえてさっさと手続をして、すぐホテルを決めてくれました。
 それはモンマルトルの近くの、こじまりとした清潔なホテルでした。受け付けのムッシュも感じがよく、部屋まで案内してくれました。
 ドアを開けると、わきに小室が一つ、ベッドが一つ。奥の室にはベッドが二つ、シャワーと トイレで付きで百十フラン(当時のレートで三千三百円ぐらい)。そして朝食もついていました(格安)。
 まだ二時だったので、さっそくシャンゼリゼへと出かけたのですが、私自身が主導権を持ってメトロに乗るのは初めて。もらったメトロの地図を片手に、慎重に注意深く進んでいったつもりでしたが、やはりどこかで間違えたらしく、まごまごしていると中年のマダムがにこやかに近づいて来て、「どこ迄行きたいのですか」と話しかけてくれました。そして親切にホームの見える所まで私達親子を案内してくれ、「ボン・ヴォワヤージュ」(良い旅行を)と手をふりながら、マダムは去っていきました。
 こうしてエトワールに無事に着いたのですが、ゴチャゴチャ網の目のようになっているメトロの中、ソルティ(出口)の表示がたくさんあり、どの出口に出れば良いのかさっぱり分からず、また息子と二人でまごまごしていると、今度は中年の紳士が近づいてきて、何かいろいろな事を言っています。「どこへ行きたいのですか?」と私は勝手に解釈して「シャンゼリゼ」と一言。紳士はニコニコしながら、ついて来なさいと先に歩いて行きます。メトロの中をグルグル歩き、やっとエスカレーターで地上に出ました。彼は、一番分かりやすい出口まで案内してくれたようです。
「ここがシャンゼリゼの始まり。そしてあれが凱旋門」と指をさし、ニッコリ笑って元来た方向にもどって行きました。
 私は、「まあ。なんてフランス人は親切な人々なんだろう」と、心が明るくなりました。
 そして今度は、自分の方から日本大使館はどこですか、と尋ねながら大使館へ直行。
 当時の大使館は、奥の方まで入れて談話室のような所があり、アパートの広告、雑誌なども置いてあり、窓口の人との境もなく気楽におしゃべりできました(今は防弾ガラスのようなものが張り巡らされ、恐ろしく事務的)。
「どこか良いアパートないでしょうか」という私の問いに窓口の人は、
「パリは全世界からの留学生がとても多く、その上パリ市はとても小さくて住宅難で、需要と供給のバランスが今はとても悪いの。広告が出ても、その日のうちに決ってしまうからここにあるのはほとんどだめね、日本人会の方に行って見たら」と言われました。
 さっそく場所を教えてもらい、日本人会へ着いたら四時。
 けれどもここでは、もっとショッキングな窓口の人の話。
「今日パリに着いて、今日見つけようなんてとんでもない。三か月や半年もホテル住いしながら待っている人も大勢いるのよ」とそっけない。
「でもアパートの広告は廊下に貼ってあるから一応見てみたら。ほとんど決っているとは思うけど」
 たしかに廊下の壁にはたくさんのはり紙がしてあり、大勢の人々が何度もめくったような古紙はヒラヒラと今にもはがれそう、見るだけでも大変なので、まずフランス語のものは無視して日本語だけのものをひろい読みし、なんとなく目についたものをひかえてから街の電話ボックスに入ったのですが、日本とは形が違うために機械に弱い私はそれだけでドキドキしてしまいました。いろいろためしながら電話をすると、いきなり「アロー」と男性の声が聞えたのです。
 私も反射的に「アロー」とはいったものの、固まってしまいました。私はフランス語ができない。また受話器の向うから「アロー」と聞こえてくるともうドキドキして、何もいわずに電話を切ってしまいました。
 しかし、落着いてくるとずいぶん失礼な事をしたと思い、あやまるために今度は言葉を用意して落着いてダイヤルすると、「もしもし」。なんと日本語で、女性の声が答えました。
 私がさきほどの失礼をお詫びすると、
「いいえ、いいんですよ。今電話に出たのは私の主人だったんです。彼は、まるで日本語が分からないので、ゴメンナサイネ」などと反対にあやまられてしまいました。 
 そして、私が用件を話すと、彼女は大喜び。なぜならアパートのアノンス(広告)は2か月前に出したのですが、すぐ夫の田舎に急用ができ、二か月間パリを留守にしていたとの事。
 そして今日たまたま荷物を取りに帰って来た所で、また明日から田舎にもどるので、すぐにも部屋を借りて欲しいという事で、話は早急に決まりました。
 その部屋は、小さな玄関のついたステュディオ(ワンルーム)。月二千五百フラン、当時のレートで約七万五千円ていどでした。
 パリのアパートは家具付が多く、他、コーヒーカップ、ナイフ、フォークやお皿まで付いているので、アパートさえ決まれば、後は何も心配するものはありませんでした。

 そしてあくる日から、我々親子の小さな冒険が始まったのです。
 始めの一か月は、毎日毎日パリ市内の観光と散策、二か月目からは、パリの郊外へ足を伸ばし、二〇キロ、四〇キロ、六〇キロと範囲を広げていきました。
 この九才の息子がなかなかのひょうきんで明るい子。けっこう話が合って、いつも笑いがたえませんでした。
 そして九月には、むずかしいと言われていたセジュール(滞在許可書)も簡単に取得、そしてパリ生活が本格的に始まったのです(その後落着いてから、いろいろな種類のアパートに住んでみましたが、それぞれになかなか興味深いものでした)。

    変わりゆくパリ

 パリのイメージを十年一日のごとく、ポジティブに抱き続ける日本人。私もその一人でした。 
 しかしそれは、風景、街並など、外観だけの事。特に過去においての、文化、芸術だと思います。その外観も変貌しつつあるので、一言でいいきる事はむずかしいようです。
 例えば、十数年前のシャンゼリゼの道ひとつとって見ても、今の道とはずいぶん違う。当時の道はふぞろいな石畳で、道巾も今の半分ぐらいの広さでした。
 街路樹も今は二列ですが、当時は一列だけでした。そして琥珀色の街灯にワインレッドの日除けテント。石畳の道は歩きにくかったけれど、なんともいえず異国を感じさせてくれました。
 しかし今は、その石畳はきれいにみかげ石で舗装されてしまい、ワインレッド色のテントはオレンジ系の赤に変ってしまい、カフェがいくつもつぶれ、ファースト・フードのお店に変り、あちこちにゲームセンターができました。
 そしてついに、マクドナルドがパリに、進出してきました。メインであるシャンゼリゼ通りに建てる時は、さすがにパリ市もずいぶん抵抗したようですが、時代の波には勝てず、最後の抵抗として、マクドナルドのトレードマークである赤と黄のMが美観を損ねるという理由で、白と金色に替えさせる事で落ち着きました。
 現在も外側からどんどん高層ビルが立ち並び、だんだんアメリカンナイズされてしまうパリ。観光都市であるパリは、今後どうするのかしらと、私も一外国人として心配してしまいます。
 そうはいっても、住んでいる人々は便利さ、機能性を求めるのでしょう。便利さは風情をこわしてしまうと云う矛盾がありますが、それは観光者のわがままなのでしょうか。
 このような時の変化の中でも、うれしい事にまだ路地から路地には中世の面影が街のいたる所に残り、建物のすばらしさ、調和のとれた街並、そして趣ある街のたたずまい等、散策してみればたくさん残っています。
 でもその中味、人間は現代なので、観光で来た人のパリ、住んでいる人のパリ、ビジネスできた人のパリ、とずいぶん感じ方、見かたが違います、
 パリに住んでいる日本人の間でよく言われるブラック・ジョークに、「フランスはとてもステキ。フランス人さえいなければ」というのがあります。「フランス人はケチ、意地悪、打算的」などという声をビジネスで来た人々からもよく聞きました(馴れるまではとても仕事がやりにくかったようです)。
 しかし、なんだかんだといってもやっぱり、パリはすばらしい、と……。
 たしかに、パリは、何年いても、あきる事がありません。むしろ日々発見するものが多い。失礼ながら、ほかのヨーロッパ都市は、一週間いるとあきてしまいます(観光にかぎり)。
 そして、他国からパリに帰ってくる度に、「パリはやっぱり、パリよ(mais paris c'est paris)」と思うのです。

    タイムスリップできるパリ

 パリでは、その人の感性で好きな時代へタイムスリップする事ができます。
 例えば、一八八〇年後半、ロートレックの歩いたパリ、ビクトル・ユゴーのいたパリもたどる事ができるし、ユトリロの描いたモンマルトルも、観光客の去った夜、石畳の上を、コツコツと靴音をたてながら歩いていくと、いつの間にかその時代に浸ることができるのです。
 モンパルナス界隈で、モジリアニを先輩に大勢の芸術家が集まり、芸術家村を作り栄えた、ラ・リュシュ(蜂の巣)などまだそのままあります。現在は未来のピカソやシャガールを夢見る若い芸術家たちが住んでいます。
 そして、バルザックはもっともパリを代表しているといえるでしょう。彼は、パリの街をあらゆる角度から巾広くみつめていました。例えば、社交界から娼婦、金持からどろぼう、知的階級、そして当時の雑誌、新聞等に、パリの風景をおりまぜながら生き生きと描き、パリの宣伝に貢献した一人だと思います。
 ビクトル・ユーゴ、エミール・ゾラも忘れてはならない人々。

 あ、ゴメンナサイ。立ち読み部分はここで終わりなんです。ここまで読んで下さって有りがとうございます。
 このあともっと面白くなりますから買っていただけるとすごく嬉しいです。 


















    おわりに


 パリに住んだおかげで、パリの変化と共に、毎年何万人もの、パリを訪れる日本の人たちを客観的に眺められたと同時に、世界の景気の動向なども興味を持って観察できました。
 例えば、パリの免税店の前など通ると、今一番景気の良い国の言葉が書かれています。
「日本語話せます、どうぞ」。九二年頃迄はそんな看板が出ていたのに、それから韓国語に変り、次にタイワン、中国語等の言葉が店頭にはり出されるようになったりで、今どこの国が景気が良いかが分かります。
 当時、日本人が買うヴィトンの数は年間一億個だったそうです。     後略






















 著者プロフィール

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本の誕生秘話

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関連書籍の紹介

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 読者感想文

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