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不登校の分類をすれば、次の通りです。
大きく分けて五つに区分できますが、本文では詳しく説明を加えています。
(1)自閉的強迫神経症型は、固執的、神経症的、習慣癖が強くみられ、自分の考えや意見などにこだわり、かたくなに守って譲ろうとしないため、孤立、孤独傾向が見られます。
(2)神経症型は、神経性習癖を伴うことが多く、孤立傾向になりがちです。

(1)の場合、感情表現はほとんどなく、無表情、冷厳、憂鬱的で無気力ではあるが、時には激しくこだわりの気持ちを持ち、攻撃行動もみられます。
この場合は、カウンセラーの対応も困難な場合が多く、生活リズムは乱れ睡眠は昼と夜とが逆転してしまいます。そして一日中自分の部屋に閉じこもり、次第に孤独になっていきます。これは内面の精神的拘束性によって起こる行動のようにも思われます。(後略)

前書き 目次 70% あとがき

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仲問一成著





新渡戸稲造と現代教育


その愛の教え




明窓出版



















推薦の言葉
●●●●●推薦の言葉の中身●●●●●

































まえがき


人は誰でも、生まれおちてから自然との触れ合いや社会生活によって形成されてゆく存在であるが、その自然的・社会的生活による人間の形成の過程には、次の四つの要素が考えられる。すなわち自然的環境、社会的環境、そして個人の生得的性質が望ましい方向に働きかけもすれば、のぞましくないはたらきかけもする。人間は千差万別の無数の作用の交錯、結合、相殺を通じてかたちづくられていくものである。これが人間形成の基礎的な過程と考える後略

























目次


第一章新渡戸博士の自己確立と教育観
新渡戸稲造の生い立ち8
東京への旅立ち13
クラーク博士の人柄15
北海道への旅立ち17
札幌農学校時代18
苦悶・煩悶の克服19
衣服哲学の内容21
教育の目的28
博士の教育方法41
カーライルの性格44カーライルから学んだもの45実在と理想46
品格と品行48ゲーテから学んだもの51
札幌時代の活躍53
京都時代の博士55
第一高等学校校長時代56
東京女子大学長時代58
教育者の資質60
日本道徳の淵源64
新渡戸博士の人柄67
日本人の能力的特質68

第二章現代社会の教育問題と対策
高校教育の問題71
教育の使命73
現代教育の悩みと問題点76
「いじめ」の現状76「いじめ」について78
少年事件は現代社会を象徴81
少年犯罪に対する指導姿勢86
少年問題の課題90
地域社会の取り組み例93
子育て母親支援93児童館に福祉施設併設94
心の教育の大切さ95
子供の悩み96
現代の学力観と指導法98
テレビの子供に与える影響103
北星学園余市高校の指導例104
ホームルーム研修会105一年生研修会106「下宿生・寮生」の訪問指導106
「学級づくり」の取り組み107「教師研修会」の実施109「強歩遠足」の実施110
「服装の自由化」と自律111「北星の魅力」はどこにあるのか112
問われる校長の資質と指導力113
教師の課題120
教師の対応122どのように指導すればよいか122具体的対策122
居場所のある学級124教師にとって大切なこと126生徒を信頼すること127
教育の基礎は幼児期128
青年期の特徴130
青年期は多様な変化の時期130出会いを大切にすること133

第三章家庭教育の重要性
日本の家族生活135
現代社会における家族の役割143
人格形成の場としての家庭144家庭独自の家風144望ましい家庭像145
現代の家庭教育148
日本の家庭崩壊の原因を探る152
家庭教育への提言156

参考資料159
1『神曲』
2『ファウスト』
3生徒の教育に対する調査
4新渡戸稲造博士略歴


























第一章新渡戸博士の自己確立と教育観






新渡戸稲造の生い立ち


博士は、文久二年九月一日(一八六二年)に、城下町盛岡市鷹匠小路(現在の下の橋中学校付近)に兄(七郎と道郎)、それに姉四人の末っ子として生まれました(幼名稲之助)。
この時代は、維新の波が国内に激変を起こした時代でありました。また彼の生まれた年は、十四代将軍家茂と和宮との結婚(公武合体)に伴う、尊攘派の志士による坂下門外の変や寺田屋事件、生麦事件、それに続いて文久の改革など国家的変動の激しい時代でありました。
この鷹匠小路は、盛岡市内を流れる北上川と中津川合流の地点にあり、近くには不来方城もあり、北西には岩手山、姫神山もそびえており、自然環境に大変恵まれた地域です。幼少時代は、この情緒豊かな環境の中で心身を鍛えられ育てられたのでした。
父は、十次郎と言い、南部藩の勘定奉行を勤め、祖父伝とともに開拓事業に尽力をいたしました。
祖父の伝は、以前に勘定奉行として岩手県紫波、稗貫郡一帯の灌漑事業に成功した実績があり、その経験を生かして、青森県三本木町の稲生川の灌漑事業を成功させ、緑豊かな田園地帯に蘇らせた事業家でした。
事業も成功して奥入瀬川の水が三本木原の大動脈となり、広大なこの地域が田園化していったのであります。
それは言うまでもなく、伝はじめ、十次郎、兄の七郎など、新渡戸一家が総力をあげて取り組んだ成果でありました。
伝と言う人物は、事業遂行能力には特に優れ、精神面においても困難にはくじけない堅固な意志の持ち主でした。個人の利益よりも他人のために、また国家のために働く高邁な心の持ち主であったと伝えられています。
この精神が、父(十次郎)を通じて、稲造少年に引き継がれていったのであります。そしてこの事業の完成により、はじめて稲が取れたことから稲之助と名づけられたのでありました。
その後父は四十八歳の若さで他界し、この時、稲造は六歳でありました。
少年時代の稲造は、強情で腕力も強く、餓鬼大将で近所の友達を集めては、中津川付近を遊びまわり、乱暴できかん坊であったらしい。しかしそのあたりから、頭脳は明敏なことでは群を抜いていたと言われます。
祖父は、「正しく導けば国家のために役立つ、著名な人間になるであろう。もし、間違えば恐ろしい悪党になりかねない」と予言したと言われます。
彼の幼年時代における一般家庭には、東アジア諸国以外にたくさんの国々が存在していることを記した書物などは、ほとんどなかったようです。
博士は、四歳頃の記憶について、次のように語っております。
新渡戸家にあった多くのありふれた物品の中に、幼い自分の心を捕らえた物が三つあり、一つはそれは「オランダの早つけ木」と言われた物で、今日で言うマッチでありました。古い箪笥の中にしまわれてあって、まやかし物のように扱われていました。なぜなら当時は、火打石が使われていたからです。
この火打石は、宗教的な意味もこめられていて、神棚の燈明を灯すには、これが汚れのない火であると考えられていました。一方マッチは異国であるオランダから渡来してきたものであると考えられていました。当時はオランダはアメリカを含んだ欧州全体を意味していました。
その外に小さなオルゴールが置いてありましたが、誰もこのオルゴールには関心を示さず、年少者の稲造だけが時々この曲に関心を持ち、奏でる音を聞いたものです。ただその時は、メロディーを楽しむというよりも、むしろ珍しい物を見つけ、気晴らしをしていたにすぎませんでしたが、やがてこの曲は風変わりのものであったため、彼はすっかり気に入り、手放すことがなかったのです。
その外に古い煙草入れや財布などがあちこちにありましたが、その中でも特に目にとまったものは、ビロードの布張りの箱に入っていた銀のナイフとフォークでありました。
なぜ、このような異国の物品が新渡戸家にあったでしょうか。それは、博士の父(十次郎)が南部藩を代表する江戸詰めの重臣であったために、多くの舶来品に触れる機会に恵まれており、田舎町盛岡では見られない、オランダの食文化を伝えるために持ち帰ったものと思われます。
このようなマッチやオルゴール、フォークなどが、新渡戸家における西洋文明の最初の出会いであり、また稲造にとってもはじめての出会いであった訳であります。この意味において、新渡戸家は盛岡において典型的な啓蒙的精神の息吹を吹き込んだ先駆的な役割を果たしたと言えます。
当時の盛岡は、人口約四万人の町で、貿易で栄えていた大阪や長崎と異なり、文化程度も低く、経済的にも遅れていましたが、その中にあって新渡戸家は上流階級に属する裕福な家庭であったと言えます。
このように武士の家に生まれ、身分の高い家庭環境の中でたくましく育てられたのであります。
また、新渡戸家には、医者が「オランダ」から取り寄せた電気器具が持ち込まれ、稲造はその器具に触れる機会があったため、電気については体験に基づく知識をもっていました。
この医者からは、西洋科学がいかに優れているかについて語り聞かされ、啓発されたのであります。また彼は数年後になって機械の強さを馬力で計算することなども西洋文明から学びます。他、西洋文明の偉大さについて確信させられたものが二つありました。その一つが鉛筆で、二つ目が牛肉であったと言われます。
彼は、六歳になるまで一度も鉛筆を使ったことがなかったので、はじめて鉛筆に接した時は、その魅力に取り付かれるほどでした。当時は黒い表面に小さく切った石灰石で文字を書いていましたからなおさらのことであります。稲造はこれを大変気に入り、学校で使う墨よりも学校以外の場所で遊ぶ時によく使用しました。
このことから、石灰石と鉛筆、それに塀や壁がなかったら稲造の芸術的な才能は芽生えなかったであろうと言われています。また、近くの商店ではいろいろな陶器類や輸入鉛筆などの進歩的な物品が扱われていました。この鉛筆の芯は和紙には固くてよく書けませんでしたが、稲造にとっては実用的で役に立ったので、大変気に入った一つでありました。稲造は、こうして自ら鉛筆を見つけ、オルゴールを聞き、マッチで火をつけるなどの好奇心が旺盛であり、それらは、他の子供には真似のできないことでした。
当時は牛や馬の肉を食べることは、神聖さを汚すと言うことから、世間一般でも許されませんでしたが、新渡戸家では、母親(せき)は栄養摂取のために牛や馬の肉を試食させ、その肉の美味しさを知らしめたため、それ以後は好んで食べるようになっていきました。
当時は牛が肉屋の包丁から逃れて、お寺に逃げ込んだ物語があり、稲造をはじめ、一般の子供たちはこの話を聞かされ、これが教訓ともなっていました。神聖な動物を殺そうとした残忍さに対して、敬虔な怖れを抱いていたので、牛が神霊をもったものであるという観念がありました。しかし一方では、この当時の風習で鶏や野鳥を殺して食べることは、なぜか許されていたのです。新渡戸家では、いつも鹿肉が何よりのご馳走として好んで食べられていましたが、牛肉だけは、はじめての経験でした。
この美味しさに稲造は驚いたものでした。稲造は、一瞬良心の呵責を感じましたが、一方ではまた食べたいという期待感があり呵責の念も薄れていきました。
この良心の責めが、かくも簡単に消失した理由を考えるとき、それは栄養摂取という本能からか、あるいは母親の進歩的な考え方に対するコンプレックスによるものか、自問自答の結果、彼は後者であると手記の中で述べております。
このできごとは、彼にとって最初の経験であったとともに、家族の知的および道徳的転換となったことを物語っています。
新渡戸家の家風からくる風習として、五歳になると武士の子供としての儀式が行われ、短刀を脇に差して武士としての自覚を植えつけられました。このように「刀に誓いを立て、自らを律する」と言った観念を日常生活の中から学んでいったのであります。しかしその後の彼はキリスト教者としての人間観を培い、人間形成をはかっていきました。彼が後になって著した「武士道」で説いた道徳観と比較することには無理があることを承知の上で比較すると、キリスト教の愛の教えである「福音」は柔和であるように思われますが、実質的には、遥かに厳しい人間の精神の高揚が求められているのであります。
信仰によって心身を律することが、幼い彼の魂の中に無意識のうちに培われていき、自然にその方向に魂が向けられ、彼の一生を貫く人生観となっていったのです。

東京への旅立ち
稲造が九歳になった時、東京の太田時敏(父の弟)から田舎にいては出世できないことや、これからの社会では学問がないと立身出来ないことを説き聞かされ、太田家の養子として上京して学問に励むようにと母より教え諭されました。利発的で向学心に燃えたかれは、向学心を満たすべく、祖父をたよって、兄道郎とともに上京したのであります。
この時母は、稲造に対して、「偉い人になって、家名をあげなさい、偉くなるまでは二度と顔を合わせない」と、何度も諭されて、別れました。この言葉の厳しい表現の中にもわが子にたいする思いやりと深い愛情の念が込められておりました。
東京に出た彼は、十歳の時太田時敏の養子となり、先ず築地の英語学校に入学しましたが、その翌年には祖父の勧めにより、藩校である「共慣義塾」に学び、漢文学を学習し儒教道徳の教えを体得いたしました。しかし十四歳になると、考えるところあって、自ら東京英語学校(後の第一高等学校)に入学しましたが、この学校には、アメリカ人やイギリス人の教師と生徒が約300人おり、将来の日本を背負って立つリーダーとなるべき秀才の集まった学校で、稲造もその一人でありました。彼は、この学校で寄宿舎に入り、外人教師との接触を多く持ち、大変可愛がられながら、英語の学力もかなり上達していきました。またそればかりでなく、人間としての内面的なものも啓発され、キリスト教の教えにも関心を抱くようになっていったのです。当時はすでにキリスト教布教の禁止が解かれて、自由になっておりました。
このように、彼は、英語の学習や外人教師との触れ合いの中から、キリスト教の説かれている「福音書」についても、強い関心を持つようになっていったのであります。
明治九年になりますと、明治天皇が即位され、まもなく東北地方を御巡幸されることになり、その時、青森県三本木町の新渡戸家を御在所とされた際に、天皇より新渡戸家親子あげての開拓事業の功績を讃えられ、子孫はこの偉業の志を受け継ぎ、なお一層努力して、農事業に励むようにとの言葉を賜り、それと同時に金一封が下賜されました。母親は感動のあまり、稲造に手紙で詳しくこの事を伝え、そのお金の一部を送金しました。彼は、大変感動して、この予期していなかったことが契機となって、生涯は農事業に励もうと決心したのであります。
早速、このお金で金縁の立派な英語の聖書を購入し、これを肌身はなさず、心の糧としたのでありました。それと同時に先祖の志を引き継いで、開拓事業にも強く関心を抱くようになり、その遺業を引き継ぐために、必要な知識と技術の修得に心が傾いていくようになっていきました。
明治九年に札幌農学校が設立されました。その頃北海道に移住した人々のための指導者が必要となり、その指導者を育成するため、当時著名度の高かった、アメリカの州立大学をモデルにして学校を設立して、マサチューセツ農科大学長であったウイリアム・スミス・クラーク博士に白帆の矢が立てられ、当時の開拓使だった黒田長官の強力な働きかけにより、クラーク博士は多忙な校務をさいて、その要望を快く受入れ州立農学校長在職のまま、八か月の暇をとり二人の愛弟子を連れて、札幌農学校の教頭として赴任したのでありました。

クラーク博士の人柄
博士は、アメリカのアーマスト大学を卒業された後、ドイツのゲッチンゲン大学に学び「植物学」と「化学」を専攻された自然科学者でありました。
アーマスト大学卒業後は、母校で教鞭をとっておりましたが、南北戦争が起こると、自ら志願兵として、二年間兵役に服し、各地で抜群の戦功を収めて、陸軍大佐まで昇進した人でした。戦後は、マサチューセッツ州立大学農学校学長となり、学校の基礎づくりのために献身的な努力をした人であります。
博士は、少年の頃から負けず嫌いで、何事にも忍耐強く実行力のある方で、威厳があり、人を引き付ける魅力のある方でした。自然科学者でありながら教育者としても優れた人格の持ち主であり、特に徳育、知育には独特の識見をもち合わせた、高邁な教育観の持ち主でありました。札幌農学校には僅か八か月の在職でしたが、特に聖書を通じての宗教的な感化と道徳観を学生に植えつけた影響は大きいと言えます。学校で博士が最初に訓示した言葉は、現在も有名な言葉として残っているBe gentleman!(紳士であれ!)という一言でした。それまでの詳細な規則は一切廃止して、ゼントルマンとして良心的に行動することを強く要求したのでありました。その結果生徒達も博士の指導の影響を強く受け、今までの生活態度を改めざるを得なくなり、ついにゼントルマンとして恥じない行動を取るように変わっていったのです。
博士は、徳育については、固い信念を持っていた人でありました。本国から持参した聖書一冊一冊に署名をして、生徒に与え授業に入る前には必ず黙祷してから聖書の講義に入り、全人教育を心がけ、道徳性の函養につとめたのでした。
博士の教育の仕方は、生徒の中に自ら飛び込んでいき、ノートの添削をしたり、生徒と一緒になって遊戯したり、登山等の学校行事には生徒の安全について最大の注意を払いながら、生徒の側にたって事故防止について詳細な注意をはらうなどの愛のほとばしる人格教育の実践であり、生徒に深い感化を与えずにはおかなかったのであります。
博士の任期がきて、帰国の途につく日、職員、生徒は馬に乗り、札幌の南方にある島松駅まで見送りし、博士は教え子一人一人と握手をかわした後、Boys be ambitious!(少年よ大志を抱け)と一言叫んで、南の林の中に姿を消していったのです。ここで博士が叫んだ言葉の意味は、立身出世などと言った卑俗的な野心ではなく、大きな希望と理想をもって、大いに努力せよと言うことであり、大きな人間に育ってほしいという期待の言葉であります。


あ、ゴメンナサイ。立ち読み部分はここで終わりなんです。ここまで読んで下さって有りがとうございます。
このあともっと面白くなりますから買っていただけるとすごく嬉しいです。


















あとがき


子供は、無限の可能性を秘め、行動を通していろいろな側面を表現してくれます。
交差点を横断する時の小学生が、右手を上げドライバ|に向かってありがとうと頭を下げる光景は微笑ましいものです。
また反面、大衆浴場や列車、バス等、公衆での他人の迷惑も考えない児童・生徒の行動は躾の大切さを教えてくれます。
このような行動に対して注意を促さない親や、聞き入れない子供、また無関心を装う周囲の大人たちの姿勢について、いささか憤りを覚えるのであります。
また、毎日のように報道される少年の犯罪や不登校の児童・生徒の数が年々上昇傾向にあることは大変嘆かわしい限りです。後略























著者プロフィール

仲問 一成(なかどいかずしげ)

一九三八年生まれ。兵庫県美方郡温泉町出身。兵庫県立浜坂高等学校卒業。明治大学法学部法律学科卒業「独法専攻」。同大学教職課程修了。現在、岩手県立平舘高等学校教諭。
元岩手県高等学校教育研究会「倫理・政経部会長」
一九九一年社会科教育全国協議会第四五回研究大会「岩手・花巻大会」事務局長
〈著書〉
「社全協紀要第二七号」社会科教育全国協議会共同執筆
「高校生の『現代社会』」教授資料共同執筆学習研究社
「倫理講話」新風書房他






















本の誕生秘話

●●●●●本の誕生秘話の中身●●●●●























関連書籍の紹介


参考文献

『北星学園百年史』通史篇北星学園百年史刊行委員会
『学校の挑戦』北星学園余市高等学校教育史料出版会
『新渡戸稲造全集』一巻〜二十三巻新渡戸稲造著
『武士道』新渡戸稲造著岩波書店(矢内原忠雄訳)
『遠友夜学校』北海道新聞社






















読者感想文

みなさんからの素敵な感想文をお待ちしております。編集部
書き込みは
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彼の伝記と考え方のエッセンスわかりやすい文章で書かれた良書だと思いました。自分自身、彼について多くの本を読んだりして尊敬しているので、彼が今のような時期にふたたび取り上げられるのは必要なことだと思います。また、彼が高校長をしていた時の教え子の中で、それほど名前が知られていなくても立派な人が多いです。(三重県F)