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>私たちは、生きています。
そして、生きていきたいという思いを持っているはずです。
しかし、それは本当の「生き方」という華やかな舞台の上で鮮明に描きだされる自分自身の真の姿形なのでしょうか。もしかすると、社会という風潮の上にただ茫然と突っ立っているだけの魂が抜けたような偽の姿形なのではないでしょうか。
なぜ、社会という風潮を重んじるのでしょうか? 
 なぜ、世の中の風潮の波に心が攫われてしまうのでしょうか?
 それは、もう一人の自分で生きているからではないでしょうか。自然なままの本当の自分、社会のシステムとか資本主義社会という現実の世界に真の疑問を抱いている「ありのままの自分」を何時しか心の何処かに閉じ込めてしまっているからではないでしょうか。

前書き 目次 70%

あとがき 著者profile 感想BBS
Copyright (C) 2007 明窓出版, All rights reserved




















   推薦の言葉
●●●●●推薦の言葉の中身●●●●●

































 まえがき


 私たちは、生きています。
 そして、生きていきたいという思いを持っているはずです。
 しかし、それは本当の「生き方」という華やかな舞台の上で鮮明に描きだされる自分自身の真の姿形なのでしょうか。もしかすると、社会という風潮の上にただ茫然と突っ立っているだけの魂が抜けたような偽の姿形なのではないでしょうか。

 なぜ、社会という風潮を重んじるのでしょうか? 
 なぜ、世の中の風潮の波に心が攫われてしまうのでしょうか?
 それは、もう一人の自分で生きているからではないでしょうか。自然なままの本当の自分、社会のシステムとか資本主義社会という現実の世界に真の疑問を抱いている「ありのままの自分」を何時しか心の何処かに閉じ込めてしまっているからではないでしょうか。     後略
























  もくじ


    まえがき

第1章   プロローグ 〜それとも〜
第2章   本当の強さ
第3章   障害という力
第4章   二人の自分
第5章   よい時代? 悪い時代?
第6章   好きか、嫌いか
第7章   ドライブ
第8章   青 空
第9章   自分の生き方をもつ
第10章   自分が本当に望んでいるもの
第11章   教訓て何?
第12章   人間の寿命
第13章   神はいるのか?
第14章   人生のはかなさ
第15章   悩みがあるうちは幸福だ
第16章   価値のない悩み
第17章   「生きている」「生きていく」
第18章   きれいごとって何?
第19章   金八先生はいない
第20章   夏休みは誰のもの?
第21章   夢
第22章   空想の世界
第23章   親父の秘伝
第24章   病院での思い出
第25章   心の旅
第26章   自 然
第27章   宛先のない手紙
第28章   会計事務所での思い出
第29章   現実逃避
第30章   暗闇の世界
第31章   本当の幸せ
第32章   仮説だらけの世の中
第33章   自分だけの仮説
第34章   考え方は不変
第35章   心の痛み
第36章   本当の光
第37章   あの日の少年
第38章   きっかけ
第39章   妻への手紙
第40章   プロローグのようなエピローグ

    あとがき


























第1章 プロローグ 〜それとも……〜






 温泉の湯に足を浸していた。
 昨日まで、鉄の棒のように言うことを聞かなかった重く赤みを帯びた私の両足に、心地よい水の感触が、再び生気を甦らせてくれる。
 皮膚癌の予防にもなるというこの魔法の水を、私は約十年前から広島県と島根県の県境にある赤名峠から、約二十分車を走らせた千原温泉という小さな温泉が湧き出る泉まで、家族と一緒に汲みに出かけている。
 片道二時間半のこの小さな温泉までのドライブコースは、私が車を運転しながら何時も妻と一緒に他愛もない話をするのがお決まりになっているが、見馴れた国道五四号線からの景色も流石に変わり映えが全くなく、もっと他愛ないものに見える。
 そんな車の中で何時も、なぜか子供の頃のことを考えている。
 兄弟でよく行った根尾の家、夏休みになると楽しみだった須佐の家、あれもこれも遠い日の少年時代という活動写真の中に、何時の間にか終い込んでしまったのだろうか……。
 しかし、いくら終い込んでも思い出すことといえば、思い出したくもなかった少年時代のことばかり……。

 それなりのツッパリを気取っていた、少し遅い青春時代を過ごした広島の友達との毎日は意外に楽しかったのだが、現在ではあまり思い出すことがない。
 優等生でただ大人しいだけの自分に嫌気がさし、広島に行ったら、一端の不良になってやろうと一人で勝手に決め込んでいた十八の頃が妙に懐かしい。
 ヤンキー紛いの髪をドライヤーで乾かすのは結構手間がかかったが、仲間内からは、「ファイヤー・ヘッド」と呼ばれ、まるで当時の横浜銀蝿のような、ちょっと厳つい頭をしていた若者が、生まれて初めて他人に威張れる自分だったような気もする。
 五〇CCライダーの群れとなり夜の市内を走り回る若者たち。
 あてもなく連れの車で真夜中のバイパスを疾走する若者たち。
 学校サボってコンビニで遅い朝飯を物色する若者たち。
 そんな普通の青春時代を過ごした。

 幼稚園の頃から背が低かった私は、中学を卒業するまで、ずっと前から二番目の位置を確保し、身体が小さいということに大きなコンプレックスを感じていた。
 火傷の足を気にしながら、何時も何かに怯えたように他人を避け、テレビの中にしか本当のヒーローを見つけられない、己の腐った心臓の中にしか好きな自分が存在しない、そんな現実から逃れたいだけの弱虫な少年が、たまらなく憐れに思えてならなかった。
 小学六年生の一年間だけは、社会のテストで百点満点を取ったことをきっかけに、それ迄の自分が嘘のような積極的で責任感の強い、イイ小学生の見本のような少しヤナ小学生に変貌した。その当時の担任だったN先生のことは、現在でもよく覚えている。
 この一年間だけが突出したものになったのは、夢でも奇蹟でもない紛れもない現実の世界に起こった話なのだが、学級委員にまで選出されたこの一年間の軌跡は、それから待ち受ける中学生活に大きな影を落とすことになった。
 つかの間の幻であるこの一年間は、思い起こせば楽しいことばかりだが、大切なものには程遠い何か鮮明さに欠けるピンぼけのイメージが付き纏っている。
 その後の中学と高校時代の思い出は、一切思い出したくないような、何時かはしみじみと思い出せる時がくるような、そんな半端な存在だが今は思い出したくない。

 明日になるのが嫌で何時も泣いていた一人の少年。
 学校が、たまらなく嫌な所に思えてならなかった一人の少年。
 大人になることが嫌で嫌でたまらなかった一人の少年。
 自分を隠し、他人からも隠れ続けた一人の少年。
 そんな普通ではない少年時代を過ごした。

 一人ぼっちだったあの頃が、現在となっては一番懐かしくてどうしようもなく愛しく思えるのは、なぜなんだろう?
 生きることに夢も希望も持てなかった一人ぼっちの少年が、現在、生きることへの疑問を胸に生きることの喜びを感じられるのは、なぜなんだろう?
 死んでしまいたいと、ひたすら思い続けた若者が、現在、自ら生命を絶つ人たちに疑問を覚えるのは、なぜなんだろう?
 そんな十代の感傷的な感情が未だに身体の中に溢れているのは、止め処なく流れる涙のように心の底から数々の疑問が溢れ出してくるのは、弱いということなのだろうか?
 それとも……?












第2章 本当の強さ

 私は、生後六ケ月の時に両足にかなりの火傷を負うという事故に遭いました。
 掘炬燵の炭火の中に落ちたのです。まだ歩くこともできない小さな赤ん坊の力では、堀炬燵の中から自力ではい上がることはできなかったのです。御袋が、そのことに気付き抱き上げた時には、両足はかなり焼け爛れていたということです。
 一時は、片足は切断しなければならないほど、ひどい状態だったと聞かされましたが、何とか切断せずに済んだということです。もちろん、この頃の記憶はありません。
 そして記憶にないということが、私の唯一の救いでした。
 物心がついた時には、両足に火傷の跡があり、その事実を受け止めようとすればするほど、心の痛みにも似た、例えようもない感情が自分の身体の中にあるということを感じずにはいられませんでした。いっそのこと、足なんて切断されて無くなっていれば良かった。と、火傷をした足とこのまま付き合っていくことへの激しい憤りの中で少年時代を過ごすことになったのです。
 子供の頃、足の治療をしていた医者から、こんなことを言われたことがあります。
「これだけの火傷をしているのにも関わらず、神経がほとんど生きているということは信じられないことだ。ぼく、ここも感じるかね?」と私の足の火傷をしている箇所を押さえるのですが、医者が押さえた箇所すべてに、「はい、感じます」と答えたことを今でもよく覚えています。
 神経は生きているのですが、足自体は足首から下の部分をひどく焼いていますので、足の形はかなり変形しています。特に左足は妖怪のような歪な容姿になっており、殆ど原形を留めていません。それが原因で小学生の頃は、足を他人に見せることにかなりの抵抗がありました。実際には大人になった今でさえ、他人に見せることには抵抗があります。
 特に、夏のプールがある時季になると、嫌で嫌でたまりませんでした。みんなは楽しそうに泳いだり、遊んだりしているのですが、私は足を見られるということが気になって、とてもそういう楽しい気持ちにはなれませんでした。
「かわいそうに」と同情の声を発する者もいれば、興味本位だけで「悪魔の足」だとか「裸足になって見せてみろ!」などと、かなり酷い言葉で罵る者もいました。
 水泳大会の前日は、翌日のことを考えると眠ることさえできず、布団の中で溢れ出る涙を拭いながら、「明日の水泳大会は中止になってくれ!」と、そう願うしかありませんでした。そんな、どうしようもない惨めな自分を蔑み、そして火傷の足を呪うことしかできなかったのです。
 高校を卒業するまでは、どんな足であっても、堂々と他人に見せることができなければいけない。もっと強い心を持たなければいけないと必死で自分に言い聞かせましたが、そう思えば思うほど益々自分を嫌になることしかできませんでした。
 しかし、ある時、「なぜ、堂々と見せないといけないのだろう? 見せたくないという気持ちが、そんなに悪いことなのだろうか?」という疑問を感じたのです。
 見せたくなければ、見せなければいいじゃないか。という疑問です。
 それまでは、足を他人に堂々と見せることのできない自分が、何か重大な犯罪でも犯しているのではないかという罪意識に苛まれていたのですが、他人に見せないからといって罪になるわけではない。そのことによって他人に迷惑を掛けるというわけでもない。
 実際に見せて、気持悪がられるよりは、見せないほうがよっぽどいいではないか、ということに気付いたというよりは、自然なままの自分の心に従えばいいのではないか、と、そう思ったのです。
 それからは、それほど足のことでのコンプレックスは感じなくなりました。
 見せたいと思える人だけに見せればいいことなのです。これは、決して嫌なことからは逃げ出せばいいということではないと思うのです。
 どうしても責任を執らなければならない仕事上のトラブルとか、人生最大の決断を迫られ覚悟を決めなければならないとか、そういう逃げれば卑怯者になってしまうような問題とは、はっきりいって次元もレベルも全く違う問題ではないかと思うのです。
 変形してしまった足を他人に見せようが見せまいが、そんなことは本人の勝手だということです。本当に見せたくないのであれば堂々と見せなければいい。何も見せることだけが堂々としているわけではないだろう。
 本当に大切なことは、「強い心を持たなければいけない」という自分の本心とは違う無理な思い込みではなく、「見せたくないのだから、見せなくて何が悪い」という自分の自然なままの心、自分の本当の気持ちではないかと思うのです。
 これは、好きでもないことを無理矢理我慢して、社会のしがらみの中で必死に自分を正当化しようとしている多くの人たちと共通する点があるような気がするのです。
 本当のやりがいというものを自らが吐き捨て、妥協と憤りの中に呑み込まれていないだろうか? ということです。
 自然なままの自分の心に、もっともっと耳を傾けてもいいのではないでしょうか。
 もっと好きなことを追求して生きる。そんな自分よがりの楽しい人生を生きてもいいのではないでしょうか。そういう一面も必要ではないかと思うのです。
 悩みというものは、ある意味では、自分自身の思い込みに他なりません。その思い込みに気付くためには、いや、もっと魅力的な自分であるためには、何にでも、まず疑問を持ってみるということが大切だと思うのです。
 いくら世間が、「それは逃げるということだろう。強さがなければ乗り越えられないものもある。弱さは自分自身の敵でしかない」と言ったとしても、本当の強さとか、本当の弱さを教わった覚えなど何処にもないし、弱ければ弱いで、それの何処が問題なのか? と、反対に聞かせてもらいたい。私が言いたいのは、弱いなら弱いでいいじゃないか、ということではないのです。
 弱さを知っているからこそ強くもなれるし、強さしか知らなければ「本当の弱さ」などわかるはずがないだろう、ということです。
 私は、ずっと弱い人間だと自分を責め続けてきましたが、責め続けても決して強くはなれないのです。弱いということを認め、本当の強さとは何なのか? という疑問を持って初めて自分に合った強さが生まれるのではないでしょうか。
 自分に合わない強さを持とうとしても、それは本当の強さではないと思うのです。むしろ、そんな強さなんて自分が本当に好きになれるはずがありません。
 自分に合った強さ。
 それが本当の強さではないかと思うのです。


 あ、ゴメンナサイ。立ち読み部分はここで終わりなんです。ここまで読んで下さって有りがとうございます。
 このあともっと面白くなりますから買っていただけるとすごく嬉しいです。 





















  あとがき


 こんな世の中で、人と世間と自分自身をひたすら疑ってきた人生に終止符はない。
 疑うことよりも信じることが大切だということは、百も承知のうえですが、最初から信じられるものなんて、たぶん何もないんじゃないか。
 大切なのは、自分を信じることではない……。
 本当に信じられる、心の底から自分自身を好きになれる自分を探すことではないのか……。
 そのためには、現実の自分の現在に疑問を持たなければ答えは出ない。社会のレールの上を何の疑いもなく歩いていくのではなく、自分のレールを自ら引かなければ答えは出ないんじゃないか……。
 薄っぺらな知識と安っぽいエゴを身につけるための勉強よりも、本当の自分と本当の人間を探す旅に出るべきではないだろうか……。     後略






















 著者プロフィール

永嶋 政宏(ながしま まさひろ)

1965年生まれ。血液型B型 趣味 サッカー観戦 映画鑑賞 ドライブ
特技 ヌンチャク回し(当たっても痛くない玩具)
島根県出身 広島県在住 






















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