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知的な大人に贈る中世史エンターティメント
村上海賊棟梁の座につくのは誰
海と山が響き合う不思議な命運……
瀬戸内の渦潮を巡って繰り広げられる雄大なロマン
恋、サスペンス、ありきたりの歴史小説では味わえない読書の醍醐味をここに。

目次

本文70% 著者profile 感想BBS
Copyright (C) 2007 明窓出版, All rights reserved






























   推薦の言葉
●●●●●推薦の言葉の中身●●●●●

































  まえがき

●●●●●まえがきの中身●●●●●

























       目 次




   序の巻     安倍野崩れ……………… 5
   巻の一     雑賀の浦  発端……………… 17
   巻の二     潮路護送……………… 79
   巻の三     灘から灘へ……………… 125
   巻の四     潮 騒……………… 170
   巻の五     栗の木長者屋敷……………… 217
   巻の六     傀儡屋敷……………… 258
   巻の七     八重の潮路……………… 310
   巻の八     伊予の落潮……………… 350
   巻の九     変転の幕間……………… 393
   巻の十     離別無情……………… 429
   巻の十一    警固往来……………… 445
   巻の十二    黒 島……………… 498
   巻の十三    備前備後……………… 517
   巻の十四    縁……………… 562
   巻の十五    襲撃者……………… 609
   巻の十六    篝 火……………… 650
   巻の十七    奇 縁……………… 693
   巻の十八    大島討ち入り……………… 732
   巻の十九    襲 名……………… 787
   巻の二十    絆……………… 818
   巻の二十一   初乗り……………… 850
   巻の二十二   三島宮参詣……………… 889
   巻の二十三   再 会……………… 916
   巻の二十四   甘崎城仕置……………… 942
   巻の二十五   来島の渦  終章……………… 997
     序の巻 安部野崩れ




























 時は十四世紀。鎌倉幕府が倒され建武の親政が始まったのも束の間、足利尊氏の反乱で後醍醐帝は吉野に逃れそこに朝廷を開いた。そこで尊氏は上皇を戴いて京都に朝廷を樹立。吉野の朝廷を南朝と呼び、京都の朝廷を北朝と呼び、南に従う者を宮方、北に従う者を武家方と呼んで、日本全国がこの両者に分かれて長い抗争を続けた。この時代を南北朝時代という。この物語はその時代のものである。
   延元(1337)二年八月、 義良親王を奉じて奥州の大軍を率い、伊達郡霊山城を発した北畠顕家卿は鎌倉を陥とし破竹の快進撃を続けたが、美濃、尾張で大勝の後、京都から大軍を率いて下って来た高越後守師泰と、近江と美濃の境にある黒地河で対戦。ここへ来て奥州勢は長途の合戦で兵馬共に疲れ切っていた。どうしても黒地河が抜けない。結局、鈴鹿を回って奈良へ入った。そこでしばし兵を休め、一挙に京都に攻め上らんと軍議を定めた。ところが事を起こす前に、これを知った都からは桃井直信、直常の兄弟が馳せ下って来た。奥州軍はこれを般若坂に迎撃したが、長途の疲れ武者達は桃井勢の前に鎧袖一触蹴ちらかされて総崩れとなり、顕家卿は河内をさして落ち延びた。和泉、河内の宮方を頼りに、捲土重来を計ろうとしたものだ。
 延元三年(1338)三月八日、顕家卿は河内の楠木党、和田左兵衛尉正興、高木遠盛等を率い、丹下城を落とし、石川川原、古市川原と敵を破り、阿部野から天王寺へ攻め込んで田代基綱を討った。一方その間に、顕家卿の弟春日少将は京洛を指呼の間に臨む男山八幡を攻略してこれを占拠した。武家方の高師直が京都を発向したのは、この情勢をみて、顕家の宮方勢がふくれあがるのを懸念したからだ。鎮守府将軍北畠顕家卿、河内、和泉にあって健在となれば、諸々の宮方が続々と馳せ参じて来るのは目に見えている。これが大軍勢になる前に禍根を断たねばならない。十三日から男山八幡に攻撃をしかけたものの、これを抜くことが出来なかった高師直は、男山一ヶ所に手間取る間に、顕家軍の勢力が増すことを恐れた。一つの合戦の動向次第で、勢いの強い方へ味方に参じる者が増えるのは避け難い世の常というもの。火の手が広がらぬ前に。師直は決断した。
   男山に備えを残し、一気に和泉に下った高師直は十六日、天王寺、阿倍野畠、阿倍野浜、一の王子にかけて大攻勢をしかけた。
 宮方はこの戦闘で大損害を受けた。吉野の朝廷はこの事態を重大視して、陸奥の結城一族に西上を促したのを始め、九州の阿蘇大宮司に馳参を命じる等、諸国の宮方を和泉に集めようとした。吉野からも、公卿、殿上人、武将を送って来た。
 この間、総帥北畠顕家は最初の打撃からよく立直り、五月に入ってから幾度か堺を襲って勝利をおさめている。とはいえ、それは援軍の到着を待って陣容を整えるまでの、兵馬の訓練を兼ねた士気鼓舞の方策を出ない戦闘行動にしか過ぎなかった。
 五月十五日、顕家卿は陣中にあって、政治向きの長文の意見書を草して吉野へ送っている。戦乱の中にあって政治に思いを馳せるのは、それがこの若き将軍の資質と情熱とはいえ、戦線が膠着状態にあり、彼我共に幾分閑かな気分にさえ見舞われていた陣中の雰囲気が、彼に余裕を与えたようだ。互いに後詰が来る、それまで束の間の休息。長い滞陣では、戦闘ばかり続くものではない。
   陸の将兵の僅かな憩いの間に、堺浦の海上で激しい船戦があった。
 武家方は中国勢の小早川水軍、宮方は伊予の忽那水軍である。
 忽那は、伊予の宮方伊予国司四条有資の軍勢催促状で顕家卿の戦列に加わるべく、瀬戸の海を漕ぎに漕いで船団を堺浦に乗り入れた。忽那の上陸作戦を阻もうとして、小早川水軍は浜辺を発進した。
 忽那水軍は小早川水軍を圧倒し、船を討ち沈め、あるいは西へ東へと追い払い、敵前上陸を敢行した。
 忽那の首領下野法眼忽那義範が着陣の挨拶に将軍顕家卿の前に伺候した時、随行の中に、中の院顕忠と名乗る武者がいた。義範の率いている者共はすべて忽那一族の者であったが、この中の院顕忠一人同族の者ではなく、忽那の勢に合力のため加わっていた。伊予大島庄の荘官の身内である。この顕忠は忽那勢の中にあって、瀬戸内海賊(水軍)の雄とうたわれた忽那の海の荒くれ者達よりも、更に船あしらいの達者で、船上の打ち物業も群を抜いていた。大将の義範も感服して、わざわざ顕家卿の前でこれを披露したのである。 「伊予大島で中の院を名乗るとは、もしや御身は久我中院の流れにてもあられるか」  若い将軍は言葉を少し改め気味にその武者へ尋ねた。 「恐れながら、中院は分流、その末流におじゃりまする」 「やはりそうであったか。久我中院は我が北畠の源流、また、伊予大島庄の領家と聞き及ぶ。奇しき縁よな。如何であろう、我が幕下についてはくれぬか。北畠一門とも扱おう」  破格の申し入れであった。然しこれは、顕家卿のその場の思いつきだけではなかった。奥州の大軍を率い転戦して来た顕家卿だが、その軍勢は鎮守府将軍の名の下に集まったもの。武家の出でない彼には、帷幄の内に、股肱と呼べる武将も一門の者もいなかった。中の院顕忠の武勇を忽那義範から聞き、このような頼もしげな武者を、縁に連なる者として傍近く置きたい、とっさにその思いが口をついて出たのも無理からぬことだったのである。 「有り難きお言葉。身の光栄と存じまする。なれど、こたびは、下野法眼殿へ合力の馳参、一合戦終わるまでは、顕忠の身は法眼殿に預け申しておりますれば」  顕忠は即座に断った。下野法眼義範が、傍らから将軍の申し出を受けるように、忽那にあっても、将軍麾下にあっても、宮方としての軍忠は同じぞ、そう勧めたが、顕忠は諾なわなかった。 「相分かった。いずれ都を回復した暁には、次に備えて、改めて御身を迎えることと致そう」  顕家卿は、少し寂しそうな顔になった。そして吉野へ上申して然るべき官名を賜るよう取り計らおう、と付け加えた。
   その三日後五月二十二日、高師直、細川顕氏は大軍を揃え宮方に大攻勢を仕掛けて来た。北畠顕家の麾下には未だ思う程の軍勢は到着していなかった。しかも宮方は、師直以下の足利勢がそれ程にふくれあがっているという情報を正確に掌握していなかった節がある。その上、局地戦ではしばしば勝利をあげ、士気は挙がっていたものの、足利勢を甘くみていた嫌いもあった。まして若い顕家将軍が、物見の伝えて来る、夥しい敵の軍兵の数にたじろぐものではない。顕家は即座に、堺浦、石津に打って出るよう下令した。
 忽那勢は堺浦の海上に出て、足利勢の脇を攻める作戦をとった。中の院顕忠は忽那義範の要請のままに、陸上から忽那水軍の上陸援護の別動隊を率い、将軍本陣とは遠く離れた戦列に着いていた。
 忽那水軍の働きは、伊予からの着到時にも増して目覚ましかった。着到時は、上陸、将軍への参陣謁見が目的で、海戦も障害排除の域を出なかった。だがこの度は違う。敵水軍を叩き、併わせて陸上戦闘にも加わる作戦である。足利方の主力は先と同じく中国勢の小早川水軍である。小早川の軍船は大型だ。それに比べ、伊予勢の船は頗る小振りに作られている。この小舟の巧みな扱いが伊予の水軍の伝統だ。堺浦の狭い水域では、小舟の利点が遺憾なく発揮された。小早と呼ばれる舟はその足の速さを使って、敵船団の中を、縦横無尽に漕ぎ抜け、火矢を射かけて混乱に陥れ、そこを狙って兵船が横付けとなって斬り込む。伊予水軍の得意の戦法である。
 乱戦に一応の終止符が打たれたのは敵将小早川泰平の討ち死の時だった。海上にどっと上がった忽那の勝ちどきの中を、中国勢は櫓を押す音も力なく堺浦の水域から逃れ去った。忽那水軍はそれには目もくれず、浦の上陸地点に向けて船列を整えた。
 一方の陸上戦闘では、忽那が予想もしなかった事態が展開していた。
 顕家将軍の本隊はそろそろ天王寺の細川顕氏の本陣に突入の頃である。忽那勢は堺を扼し、あわよくば天王寺に馳せ上り、北畠本隊と合流して、一挙に和泉国から武家方の勢力を駆逐し、宮方の一大拠点とする作戦であった。だが、忽那勢が上陸した時、それを援護する手筈の、中の院顕忠の動きはなく、予想を超えた多勢の敵に忽那は苦戦を強いられた。それでも遮二無二突き入ろうとする忽那勢、戦線は忽ち混戦模様となった。その混乱の中で、殺戮の現場に行き合わせたのは忽那義範だった。葦の茂みに逃げようとする宮方の武将らしい者を追い詰め、その茂みの中の僅かな空き地で、十数人の敵に囲まれ、半ば折れた刀を左手、右手に小刀を持って最後の抵抗を続けている顕忠の姿を発見した。 「顕殿、助勢」  義範は叫ぶと同時に、顕忠の前で長刀を振り上げた敵の腰のあたりを大刀で斬り払った。それを見た顕忠はとたん気の緩みが出たものか、その場にへなへなとうずくまってしまっていた。
 合戦は宮方の壊滅的な敗戦に終わった。顕家本隊は敗走につぐ敗走で散々となり、将軍顕家卿は僅か二十騎と共に吉野へ逃れようと戦線離脱中、和泉境の阿部野で追いすがる敵勢に取り囲まれ、顕家卿は武蔵国の越生四郎左衛門尉に討ち取られてしまった。
 忽那義範は、手勢の者の注進によって、戦局を掌握すると同時に引き上げを下令し、一旦船に乗って海上に逃れた。中の院顕忠は幸いさした深手を負ってはいなかった。無数といっていい程の刀傷、矢傷を負ってはいたが、彼にとってそれは何程のものでもなかった。敵の雑兵に囲まれている最中、義範の顔を見たとたん不覚にも崩折れてしまったのは、疲労困倍の極にあったからだ。顕忠の率いていた配下達も並みの者ではなかったのだが、葦の葉陰で待ち伏せにあい、策を巡らすいとまもなく、多勢に囲まれた混戦になった。それでもどうにか配下をまとめ後退を下令して、彼一人殿に踏み止まって配下の脱出を助けた。武者三人を討ったまでは憶えていたが、雑兵にいたってはどれ程倒したか。だが所詮は一人、追いすがる敵の手から自分の脱出は出来なかった。 「法眼殿が後一瞬遅かったならば、顕忠の首ははねられてあったでありましょうな」  中の院顕忠は、生気を取り戻してからしみじみと述懐した。 「ま、それも、顕殿の運の強さよ。傷の癒ゆるまで、ちとのびやかに過ごされよ」  忽那義範は懇ろに顕忠を労わり、軍勢の半数以上に伊予への帰投を命じた。残りの軍船は、淡路の沼島でしばらくは兵を養うようにと達した。沼島の小笠原海賊は宮方であり、忽那とは昵懇以上の強い絆で結ばれている。義範は自ら僅かな手勢を連れ、男山八幡に立て篭もる春日少将顕信の軍に加わるという。 「かしこには忽那一族の手の者が入っている。伊予守護大館氏明殿も入らせられたと聞き及ぶ。われらが馳せ向かうのは合戦のためよりも救出が狙いじゃ。北畠将軍討たれ給うた今となっては、和泉、河内の宮方、男山への加勢は思いも寄らず、北陸の新田義貞殿南下まで、男山は保つか否か心許ない。されば、痛手の広がらぬ内に退くに如かず」  義範は物見の報告から的確な判断を下したようである。 「それにしても、男山入りの人数が少な過ぎるのでは」  そう案じる顕忠に、 「和泉より男山まで、足利勢の固めで蟻の通る隙間もなかろうよ。軍勢を引きつれておし通ろうとすればよな。小人数で忍び入ろうとするなら、道はどこにでも、手はいくらでも。案じ召さるな。義範必ず、一族の者共無事連れ帰り申す」  彼は事もなげに笑って見せた。
   中の院顕忠は沼島の小笠原水軍の手厚い看護を受けていた。忽那の軍船で沼島へ航行の途中、船上で高熱を発したのである。太股に受けていた傷の化膿である。さしたる傷に非ずと、気力だけは旺盛であったが、沼島に入港の頃には熱のため、意識も朧な状態だった。伊予へ直行する船隊の後備えと、忽那の御大将無事上陸潜行を見届けるため、沼島行の船隊は一昼夜堺浦の沖に漂泊していた。船上では満足な手当ては出来ない。応急処置といっても、血止めに傷口を縛る程度のものだった。顕忠の太股の傷は思ったよりも深かったようである。一昼夜の漂泊の間に症状は悪化していた。
 海上に在って、大将義範の言い置いた略予測の頃合い、遥か彼方の河内の山あたりに狼煙が望見出来た。それが狼煙とは気付かない程のかすかなものであったが、海の男達の目の良さは格段のものがある。 「御大将、無事山道じゃ。者共、櫓を降ろせえ」  宰領の武士の下知で、船隊は船列を整えながら南下を始める。
 その時まで顕忠は、さした不自由も感じないで船上を動いたし、誰彼となく談話も交わしていたのだ。船が動き出すと同時のように、めまいかな、と思う間もなく、体を支えきれなくなり、舷側にくずおれてしまっていた。
 高熱が退き、意識を取り戻したのは、沼島の小笠原の館に担ぎ込まれてから三日の後である。
 皮肉なことに、顕忠が生死の間をさ迷っている病床の枕元に、鎮守府将軍北畠顕家の書状がもたらされた。日付けをみれば、将軍出陣の前日。あの乱軍、敗戦の際どこをどう潜りぬけたのか、将軍の下命を受けた者から回り回って忽那の手に渡されたらしい。書状は、堺で散り散りとなった兵の収容のため、なお二日止まっていた二隻の船隊がもたらしたものである。
 将軍の書状には、吉野の朝廷より近く「大膳大夫」の沙汰があるであろう、とあり、更に「向後、北畠を名乗り、折あらば我が幕下に参じ候へ」と懇ろな文言が書き連ねてあった。
 思いも寄らない望外の達しだった。「大膳大夫」は宮中の「大膳職」の長官である。大夫は五位の通称だ。常の世であれば、無位無冠の中の院顕忠がいきなり任ぜられる官位ではない。顕家将軍はよほど顕忠を幕下に欲しかったのであろう。然し、然るべき地位で軍勢を預けるためには、将兵の納得する官位が必要だった。殊に北畠軍は奥州勢を始めとして、河内で募った宮方の兵もすべて寄せ集め、北畠股肱の者は僅かであった。そうした軍勢を束ねるには、一応の官位を持つ者でないと兵の心服は得られなかった。そこで吉野の朝廷へ、顕忠を北畠一門の者として、軍功を添えて叙位任官を奏請したものであろうか。
 だがその顕家将軍は戦死。将軍からの私信だけでは官位を得たことにはならない。少々心許ない思いであったが、案の定、その後吉野からは何の沙汰もなかった。あの最後の出陣の混乱の中で、吉野への使者の身に何かが起こり、将軍の奏請状が届かなかったのか、或いは、吉野よりの沙汰を届けるすべがなかったのか。不明のままに、顕家将軍の達しは反古同然の運命となってしまった。
 忽那勢の一部は瀬戸内の本拠へ引き上げたが、なお本隊は沼島に止まり御大将忽那重範の救出作戦に備えている。中の院顕忠は床にあって、無聊をかこつよりも、戦列に復帰出来ぬ我が身の腑甲斐なさに苛立っていた。


あ、ゴメンナサイ。立ち読み部分はここで終わりなんです。ここまで読んで下さって有りがとうございます。
 このあともっと面白くなりますから買っていただけるとすごく嬉しいです。 


















 あとがき

 ●●●●●あとがきの中身●●●●●
























広島市在住。 日本放送作家協会会員 日本脚本家連盟連盟員。 【執筆作品抄録】 放送脚本  ラジオドラマ「夢よ永遠に」(連続五十二回放送、RCC局)「題のない風景」(十三回連続、       RCC局)物語シリーズ「通り雨」他(RCC局)テレビドキュメント構成「移り行く郷       土」(シリーズ、HTV局) 舞台脚本  児童劇「椎の木、他」(旭劇場及び広島児童文化会館こけら落としにて上演)「星」(銀の鈴誌) 小  説  「可愛い女」(広島文学誌)「大助紅車は何故紅い\新工夫御免許人力車」(栄光出版社刊) エッセイ  「五畳庵記」(郷土ひろしま誌連載) 古代史   「メディアとしての記紀神話物語」(近代文藝社刊)

長谷井杏亮





















本の誕生秘話

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