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 現代文明の全世界にキリスト教や仏教やイスラム教などといった大宗教がこびりつき、人間は本来の人間らしい生き方を過ごすことが不可能になった。
たしかに伊勢神宮や春日大社などといった組織宗教にへばりつく日本人も、アニミズムから変化した神道の中に縛りつけられ、自然に生きる人間としての誇りや喜びは何処にも無くなっている。

前書き 目次

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Copyright (C) 2007 明窓出版, All rights reserved






























   推薦の言葉
●●●●●推薦の言葉の中身●●●●●

































 まえがきにかえて

 著者の死
 何処の民族も、その歴史の始りからアニミズムのささやかな組織宗教以前の宗教形式があったようだ。山や古木を崇め、巨大な石ころや川の流れを愛したあの純粋な宗教の形の中に、あらゆる民族は夫々の文化の形を作り上げ、託して来たのである。現代文明の全世界にキリスト教や仏教やイスラム教などといった大宗教がこびり付き、人間は本来の人間らしい生き方を過ごす事が不可能になった。確かに伊勢神宮や春日大社などといった組織宗教にへばりつく日本人も、アニミズムから変化した神道の中に縛りつけられ、そこには自然に生きる人間としての誇りや喜びは何処にも無くなっている。  後略
























     宇模永造/目次


 まえがき ………………………………………… ……………………………4

 第一章 モニュメンタル・メモリィ
      新しい革袋、古い革袋 ………………………………………… 10
      わたしの番だ! ………………………………………………… 19
      はじめに入った海 ……………………………………………… 22
      文学は阿呆の趣味 ……………………………………………… 40
      ノアの箱舟 ……………………………………………………… 55
      アルキメデスが凝視するもの ………………………………… 73
      ああ、ボケナスの午後 ………………………………………… 79
      魚の呼吸 ………………………………………………………… 87

 第二章 甲殻類または文化人間
      はるかなるエデンの園 ………………………………………… 124
      十二ヒ、クルコト、ミアワセヨ ……………………………… 136
      わたしのコーカサスは誕生した ……………………………… 148
      ダイヤモンドでさえ炭素のかけらだ ………………………… 154
      死にかけている医学生の下手な水彩画 ……………………… 190
      精液スチュー …………………………………………………… 195

 第三章 孤立という名の完璧な構え
      氷河期は突如やって来た ……………………………………… 204
      パルメデスの実体=c………………………………………… 222
      ほら穴の中のラファティ ……………………………………… 235
      硬直と睡眠の中間位 …………………………………………… 248
      とさのさむらいはらきりのはか ……………………………… 262


























    新しい皮袋、古い皮袋






 今年のノーベル文学賞の受賞はサムエル・ベケットに決定したと、今朝の毎日新聞が報じている。同じ新聞に、六千光年の彼方の宇宙空間に、地球と全く同じ条件の天体があることをつきとめた記事が載っている。それは、北回帰線を規定しているカニ座の中に在る星だ。 
 それにしても、ノーベル賞とは一体何なのだろう。ノーベル賞選考委員会を組織している人間達は、一体何者なのか。昨年の川端康成の受賞で、一つのイメージを描いていた私は、まるで、狐にだまされたかっこうだ。
 ヌヴォー・ロマンのベケットは、文学を根底から放棄した男である。一切の筋(ストーリー性)を無視している。文章の効用を踏みにじっている。
 一切を、限りなく深く、痛み多い虚無の足場に立って絶壁に挑む、生と死の谷間のロック・クライマーの厳しい姿がそこにある。私個人としては、彼の作品は読む気がしない。それでも、『モロイ』や『終焉』、『追放された人』、『鎮静剤』など、邦訳されたものの極くわずかな部分を、いやいやながら読んでみた。
 ペーター・ヴァイスの、とりとめもなく、ぐずぐずと尾を曳く文体が、ベケットの場合、ぶつ切りにされた短い、極く平易な文体の珠玉を通して長たらしい意識に置き換えられている。
 ベケットは、モノログしかいえない、巨大な自閉症的詩人なのだ。
 おそらく、彼のそうした生き方、つまり対話という、文学者にとっての金科玉条に対する違法は、直接そのまま、彼の、従来考えられてきた文学に対する反逆の意志のあらわれにつながっている。
 まるで、にわとりのように同じ啼き声で決まった時間に啼く態度をとる。自分を反復するか、さもなければ、黙るしか手がない立場に自分を置いている。だから、これほどの極限状態で書き進められるベケットの作品は、モーリス・ナドーによっては「人間は幼虫にまでひきずりおとされ、その幼虫が這いずりまわって泥にまみれる。世界からは、単に混乱した、全く無意味な響きしか、もはや、この男にはきこえやしないのだ。彼の口からもれてくるものは、おしゃべり(言葉ではない)、擬音語、そして腹鳴りである。」
 でしかなく、J・ブロック=ミッシェルによれば、
「彼は、従来の小説を、とめどなくこみ上げてくる内心のつぶやきの中で破壊した。そして、理性の全然届くことのない、また、これのお陰をこうむらない、何ら捉えどころのない、流動的なモノログをつくり上げていった。」である。
 擬音語とか流動的なモノログとは、まさしく、ベケットの文体をかなり正確にいい当てた表現である。彼の文学が「言語芸術に対する、言語による激しい反省ないしは厳しい悟り」であることは間違いない。
 文体の形式に捉われずに書くためには、英語よりフランス語の方がずっと自由だと考えた彼は、はじめは英語で書いていたにもかかわらず、フランス語に転向した。この辺りにも、彼の、言語による反省の厳しさの、並々ならないものを感じさせる何かがある。
 彼は書くことさえ、一つの妄想として否認するほどに、彼なりの虚無の世界に立入っている。余りにも奥深く、はまり込みすぎてしまった。もはや、彼にとって、何一つ書く必要はないのかもしれない。バババ……とか、ドドド……と、同じ発声を永久にくり返えしていても、そのことは、いわゆる名作と呼ばれている文学と比べていささかも劣ることがないし、また、優れてもいないはずだ。彼にとって、一つの表現、一つの描写は、文学という美名にかくれて行う虚妄の行為であると断言する。
 こういった立場でものを書きすすめるということは、隠者が、人里離れた森の中の、小屋の前の空地を耕すようなもので、純然たる独白の性格を帯びることを避け得ない。そのために、いや、そのせいで、彼の作品の中で、つぶやきをつづける人物は、きまって社会的、肉体的両面において、もっともひどい欠陥のある人間である。
 社会的には、精神異常という孤立した立場をとらされ、肉体的には、不具という断絶の生き方を強いられる人物が続々と登場する。『マローン死す』の中では、瀕死の床についているマローンが登場し、『モロイ』の中には、自分の体が徐々に腐っていくのをみつめている跛のモロイであり、『名付けられぬもの』の中では、いざりのマフッドなどである。
 彼等は一様に精神が異常になっている。厳しい孤独の中でそうならざるを得ないのだ。彼等には、何一つ、日常性を期待出来ない。常識も、通念も、ありはしない。極度に不均衡を保って傾き、時間と空間から漂流して、目的のない方向に流れていく姿がそこにある。歴史の中に記録される世界から完全にはみ出してしまっている。巨大な人格と、雄大な人間的魅力を具えて、下品で干乾びた日常性からはみ出してしまう、いわゆるアウトサイダーですら、これら不具の孤独者からみれば常人であるのかもしれない。ぶつぶつと、とりとめもなくものを考え、ものを語り、ものを論じる。一つ一つの言葉には意味がある。だが、それらの言葉の全体の流れの中には、全然意味がないのだ。誰れ一人、こういった男達の問に答えてくれるはずもなく、質問を本気で浴びせてくる気遣いもなく、攻撃もせず、同意するわけでもない。社会は、彼等不具者に対して、冷たく、無反応な自然界でしかない。だから、社会から眺めれば、彼等もまた、それと同様に、石ころか木片のように、冷たく無感動なものとしてしか映りはしない。
 ベケットは、おそらく、こういった、不具者の厳しくももの憂い世界の中に、書くことの最後の意味を見出したのだろう。彼は、社会にとって全く必要のない人物になりきることによって、辛うじて文学を肯定することが出来た。私は、それとは全く正反対の立場をとる。社会に、この世の中に、この地上にひどく興味を抱いている。だから、口ぎたなくこの社会をののしり、悪態をつく。
 彼は自分の書くものの中に、人々が示唆を受け、啓示を受け、発奮し、悟り、開眼し、勇気づけられるようなものの一切を拒否する。
 しかし私は違う。私の書くものを通して、人々は、大いに発奮し、啓発されなければならない。これは善悪の問題ではない。単に好みの問題だ。赤い帽子が好きな人間と白い帽子の好きな人間の違いと実質的に全く同じなのである。
 私は、読者を忘れて書きつづける。そのように書きつづけることには間違いないが、これは、どのように眺めても、どう読んでみても、対話の書であることがはっきりしている。相手が耳を傾けようと傾けまいと、私は、相手に向かって、真正面から、堂々と、洪水のように言葉をぶちまけていく。ベケットは、歴史に背を向けた。私は、歴史に対して、顔を向けている。
 否、私が、この様に、言い切ったのは、或いは誤っているのかもしれない。彼自身、ちゃんと、世間と歴史に顔を向けているのかもしれない。そうだ、ちゃんと顔を向けている。
「さて、そろそろこの物語りにしめくくりをつけよう」とか「多分また、別の機会に、違った物語りをすることもあるかもしれない」とか、かなり頻繁に、いろんな作品の中で言っているところをみても、そのことは充分はっきりしている。こういった言葉の言いまわしは、ずーっと昔、フローベルやドーデ達が好んで用いたものである。
 案外、ベケットの文学態度は、モノログを基調にした、別種の技巧なのだろう。所詮、人間は、この社会と歴史から背を向けて暮すことなど出来やしないのだ。
 文壇などといったものを、完全に認めない彼の生き方は、それにしてもひどく純粋だ。彼の生き方が示唆してやまないもの、それは、人間は自分流の生き方をする時、もっとも太く長く生きられるという事実であろう。結局、人間は、自分の生き方以外で生きられるはずがなく、もし、全く別の生き方をしているとするなら、それは、まだ母の胎内で、羊水にプカプカと、浮遊しながら悪夢をむさぼっているからだ。そういう人間は、完全に、一度、死に絶えてしまうまで、本格的には生きられない。
 それにしても、ノーベル賞が、こういったベケットに与えられるとは、一体、どういうことなのであろう。
「スエーデン・アカデミーは、自分達がどんなに恐るべき作家に与えたのか、十分知っていたかどうか―」
と書いているのは、高橋康也である。
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 ともかく、ノーベル賞の存在のあいまいさはさておいて、ベケットの文学は、私の好みに合わない。彼は余りにも文学のための文学をやりすぎている。彼の作品には、現代の人間の魂の苦痛が極限状態にまで刻みつけられているとはいえ、彼の生活が感じられないのだ。彼の思想や思考は、向う側に貫き通っていない。思惟のパイプが、絶望的に詰まっている。
 可能性の袋小路。断崖のふちに立つ追放者。思考の終焉。
 私は、そういった、弱々しく絶望的な暗さ、陰鬱さを、さも文学の本道だとか、知性豊かで気の利いた人種の示す生活態度だと早合点している人々の仲間ではない。私は、万事について、もっと素朴で単純なのだ。ふりをするのが大嫌いだ。
 私は、向う側に貫いている思想と行動の中で生きている、もっとも平均的な人間である。むしろ、神秘は、そういった平凡なものの中に漂っているものなのだ。陰鬱な、閉じている世界には神秘さが漂ってはいない。虚無の化石が、漂々と枯れ果てた花々の間に林立している死の風景だ。言葉は一つもない。沈黙の中で黒い烏が、不気味な声で笑いつづける。タンギーの描く超自然の野辺に展開する幻想の世界である。ところどころ落ちて散らばっている貝殻や骨、枝、昆虫の死骸は、何一つまともなものを説明しようとはしていない。道はどこにもない。遠近感は全くゼロだ。明暗もまたない。その広がりゆく世界は、限りなく明るくて、同時に、限りなく闇におおわれている。人間が人間のままで入っていってはいけない処。人間は、一滴の血の滴か、雪のフレークに化身してからでないと立ち入りを許されないところなのだ。
 残念ながら、かくも厳しく人間の魂をつきつめて強力な電子顕微鏡下で真価を発揮するプレパラートにまで仕上げられていった彼の文学ではあるが、それは向う側に貫通していない、閉鎖の思想である。
 生きているものは、すべて彼方に向かって突き抜けていなければならないという私の鉄則に反する以上、これはまさしく失敗作なのだ(というより、私にとっては、死に絶えている作品なのだ)。
私は、単なる言葉の遊びにかまけている暇はないので、そういった傾向の見られる作品には、本腰を入れる気になれない。
 フローベルよりはジェフィリーズにずっと近づけるというのもそのためであり、モーパッサンよりジョイスにずっと親しめるというのもまた同様な理由からだ。
 それにしても、長い人類の歴史をふり返ってみても、本当にその人間がおどらんばかりに書き上げ、歌い上げ、語り尽くしたという作品はすくないものだ。殆どが、何らかの意味で、小手先二十糎の技巧の成果にすぎない。足の指にペンをにぎらせて書いたような作品は本当に稀だ。包装紙の裏に、無雑作に書かれたという大胆極まりない作品も、皆無に近い。
 そういう意味では、残念ながらベケットの作品も、現代感覚の粋を尽くして書かれた、新しい時代の最先端を行くテクニックの所産であることは間違いない。
 そして、ノーベル賞選考委員会は、結局、何者なのかと、われわれは改めていぶかる必要がないのである。川端の、なんとも時代遅れな、到底現代精神をまともなかたちでは満足させそうもない技巧主義や、ベケットの、洗練されてすっきりとした新技巧主義も、新旧別々の皮袋に入れられてはいるものの、つまるところは同じ安酒に変わりが


 あ、ゴメンナサイ。立ち読み部分はここで終わりなんです。ここまで読んで下さって有りがとうございます。
 このあともっと面白くなりますから買っていただけるとすごく嬉しいです。 


















 あとがき

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 著者プロフィール

上野霄里
 
岩手県一関市在住。神学校を卒業、布教のため同地に移住するが、その後教団とは絶縁する。世界各国の芸術、思想家と親交を持つ。特に400通もの書簡を交わし合った、故ヘンリー・ミラー氏とは互いに胸奥を披瀝し合うほどの間柄で、往訪も含め、深交は最晩年まで変わらずに続けられた。

主なる著書 『単細胞的思考』『放浪の回帰線』『運平利禅雅』『離脱の思考』『くがねの夢』『若者へのエファンゲリュウム。』






















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