倫理を知り、倫理と出会い、倫理と道徳もへだてなく 倫理を生きる

ホームへ
新刊コーナー
話題の本たち
本のソムリエ
発刊予告
世界一の本
お客様の声
原稿募集
レビュー募集
サイトマップ

【本の検索は】  
ジャンルで探す 
タイトルで探す   
著者名で探す
電子本リスト


海外でのご注文
電子本
お問合わせは

【明窓ブログ】
社長の雑記帳
賢人の庵
日々の心の模索

 

 



 


立ち読みなどは下のボタンをクリックして下さい。
 信念を持った子育てを!
 現代社会で、子供たちにとって大事なものは何なのか、何が必要なのか、その辺のところを親としてしっかり見極めたい。
時流にただ流されるのではなく、自分の流儀で、信念を持った子育ての方針を立てることが大切だと強く思う。
不安の渦巻く激動の時期だからこそ、日々の生活の足元を見つめ直し、心の根をしっかりと保つ必要があるでしょう。

前書き 目次 あとがき

本文70% 感想BBS 著者profile
Copyright (C) 2007 明窓出版, All rights reserved













 
         丸山敏秋著著





 親と子のハーモニー





                                   明窓出版



















   推薦の言葉
●●●●●推薦の言葉の中身●●●●●

































  まえがき

一九九五年は不気味に年が明けました。
 九四年の歳末に、三陸のはるか沖を震源とする地震が八戸をはじめとする東 北の太平洋岸の都市に大き被害をもたらし、年明け早々に兵庫県南部を襲った 大震災の惨劇。猛毒の神経ガスを使った無差別殺人、反社会的な宗教団体の恐 怖、一向に歯止めがかからない円高と経済不況……。政治への不信や、いじめ 問題に露見される教育の無力化については、もはや語るまでもありません
。  何かが、大きく変わろうとしているのです
。  その何かが根源的なものであればあるほど、揺れも大きく激しいものになり ます。天地も呼応して振動するでしょう。そう考えてみると、人類が築いてき た近代の文明、その根底にあるパラダイム(ものの見方・考え方の枠組み) が、いまや音をたてて変わろうとしているのだと思えてなりません。

























       目 次




1 インディアンはウソつかない  7 
       7 2 記憶は無限の貯蔵庫        171
3 物の整理は心の整理        27
4 笑顔いっぱい健康家族       37
5 平凡の中に非凡が輝く       47
6 オンリーワンが合い言葉      57
7 森へ行きましょう         67
8 子供の「なぜ」を受けとめよう   77
9 集中力と持続力を高めよう     87
10 心の花を咲かせる教育       97
11 いのちの光が見えますか      107
12 苦しみは祝福のメッセージ     117
13 感性の窓を大きく開こう      127
14 どの子もみんな素晴らしい     137
15 言葉を変えると心も変わる     147
16 かあさんの詩が聞こえる      157
17 子供をだめにする秘訣       167
18 精神の危機の時代の子育て     177
19 変わる時代の子育て        187
20 遠いまなざしが子供をはぐくむ   197
21 小さな子供に学ぶもの       207
22 背目手にっこりいい声で      217
23 「いのち・共歓」の新しい世紀へ  227
おわりに               238
3 物の整理は心の整理        27
4 笑顔いっぱい健康家族       37
5 平凡の中に非凡が輝く       47
6 オンリーワンが合い言葉      57
7 森へ行きましょう         67
8 子供の「なぜ」を受けとめよう   77
9 集中力と持続力を高めよう     87
10 心の花を咲かせる教育       97
11 いのちの光が見えますか      107
12 苦しみは祝福のメッセージ     117
13 感性の窓を大きく開こう      127
14 どの子もみんな素晴らしい     137
15 言葉を変えると心も変わる     147
16 かあさんの詩が聞こえる      157
17 子供をだめにする秘訣       167
18 精神の危機の時代の子育て     177
19 変わる時代の子育て        187
20 遠いまなざしが子供をはぐくむ   197
21 小さな子供に学ぶもの       207
22 背目手にっこりいい声で      217
23 「いのち・共歓」の新しい世紀へ  227
おわりに               238
2 記憶は無限の貯蔵庫        17
3 物の整理は心の整理        27
4 笑顔いっぱい健康家族       37
5 平凡の中に非凡が輝く       47
6 オンリーワンが合い言葉      57
7 森へ行きましょう         67
8 子供の「なぜ」を受けとめよう   77
9 集中力と持続力を高めよう     87
10 心の花を咲かせる教育       97
11 いのちの光が見えますか      107
12 苦しみは祝福のメッセージ     117
13 感性の窓を大きく開こう      127
14 どの子もみんな素晴らしい     137
15 言葉を変えると心も変わる     147
16 かあさんの詩が聞こえる      157
17 子供をだめにする秘訣       167
18 精神の危機の時代の子育て     177
19 変わる時代の子育て        187
20 遠いまなざしが子供をはぐくむ   197
21 小さな子供に学ぶもの       207
22 背目手にっこりいい声で      217
23 「いのち・共歓」の新しい世紀へ  227
おわりに               238


























  インディアンうそつかない





狼と踊る男
 いきなり映画の話から始めます。ケビン・コスナー主演の大作『ダンス・ウィズ・ウルブス』は心に残る映画の一つでした。ご覧になった方も多いと思いますが、子育てでテンヤワンヤのお母さんや猛烈社員のお父さんは、ゆっくりと映画やビデオを見る時間もないでしょうから、この作品のストーリーを簡単にご紹介しておきます。
 『ダンス・ウィズ・ウルブス』は一九九〇年の作で、三時間の長編。舞台は一八六〇年代のアメリカ、あの西部開拓時代です。足に重傷を負って死を願望した陸軍中尉ジョン・ダンバー(ケビン・コスナー)が、妙なことから西部開拓の最前線への赴任を希望し、許されました。そこはダコタ州のセッジウィック砦。足の傷も癒えてから行ってみると、ヒトっこ一人いない無人の砦です。
 荒涼たる原野の砦にただ一人で生活するうち、一匹の狼がダンバー中尉に興味をもったのか、接近するようになりました。そしてやがて、荒野の隣人であるインディアン(アメリカインディアン)のスー族が現われます。中尉の善意と誠実さがインディアンたちに理解され、いろいろな出来事があった挙句、ついに彼はスー族の一員になって、白人軍隊の横暴に抵抗するというストーリーです。広大な美しい自然をバックに展開されていくスケールの大きさはアメリカ映画ならではのこと。
 ダンバー中尉は例の狼と戯れていた場面をスー族の者に目撃されたことから、「狼と踊る男(ダンス・ウィズ・ウルブス)」と命名されたのです。この式のインディアンの命名の仕方が面白いではありませんか。「蹴る鳥」「風になびく髪」「こぶしを握って立つ女」「十頭の熊」といった具合に、インディアン社会では本人の容貌や性格やその人にまつわる出来事から、リアルな名前が付けられるのです。
 ところでかつての西部劇で、インディアンといえば野蛮で獰猛、まるで悪の権化のように描かれていました。ところが『ダンス・ウィズ・ウルブス』では、残酷で野蛮なのはむしろ白人の軍人の側なのです。このようにインディアンの扱いがまるで違ってきたことには驚かされました。映画評論家の友人に聞いてみると、一九七〇年代からインディアンに対する扱いがずいぶん変わってきたけれども、インディアンが作った映画だったらもっと違う白人像になるんじゃないのか、ということでした。
 インディアンのことを、私たちもあまり知らないのではないでしょうか。

  白人の神とインディアンの神

 日本でインディアンといえばアメリカインディアンのことで、スペイン人がアメリカ大陸を発見する以前からこの大陸に住んでいた原住民の総称です。コロンブスがアメリカを発見した当時、彼はアメリカをインドと誤認していたため、スペイン国王への報告書に原住民のことをインド人 Indio と書いたのが、今日まで一般的に使われてきました。彼らは太古に存在していた大陸アトランティス(あるいはムー?)の住民の子孫だともいわれますが、本当のところは分かりません。ひと口にアメリカインディアンといっても、南北に数多くの部族や異なる文化があります。かつての彼らの高度に栄えた文明は、無残にも少数の白人征服者によって破壊略奪されてしまいました。
 あるとき、シュタイナー教育で知られるドイツの神秘思想家ルドルフ・シュタイナーの本を読んでいたところ、インディアンについての次のような話が載っていました。\\\ヨーロッパの入植者たちは新大陸に渡り、インディアンたちに新しい楽園を与えると約束して彼らを故郷の土地から退かせました。ところがその約束は守られなかったのです。インディアンの酋長はなぜ約束が守られなかったのか理解できません。そこで両者の間で話し合いが行なわれたのだそうです。酋長が言いました。
  青白い顔のおまえたちの隊長は、別の土地をわしらにくれると約束した。おまえたちの足
  は、いま、わしらの土地の上にある。おまえたちは、わしらの兄弟たちの墓の上を歩きま
  わっている。白人は、インディアンとの約束を守らなかった。おまえたち、青白い顔の人
  間は、小さな魔法のしるしのある黒い道具(バイブルのこと)を持って、おまえたちの神
  がなにをしたいのかを学ぶ。けれど、約束を守ることを教えない神は、悪い神だ。インデ
  ィアンには、そんな神はいない。インディアンは雷を聞き、稲妻を見、その言葉を理解す
  る。神は、雷、稲妻で語る。森で木の葉のざわざわいう音を聞く。そこでも、神が話して
  いる。川の波の音を聞く。その言葉を、インディアンは理解する。嵐がいつ来るか、わか
  る。あらゆるところで神が語るのを聞く。この神は、おまえたちの黒い魔法のしるしがい
  うのとは、ぜんぜんちがうことを教える。
                   (『神智学の門前にて』、イザラ書房、一三三頁)
 とても興味深い話だと思いませんか。「黒い魔法のしるし」とはバイブルの文字のことです。バイブルにいくら正しい立派なことが書いてあっても、実行できないことを教える神はほんものではないとインディアンの酋長は見抜きました。約束を実行できない白人は、武力でインディアンに打ち勝ったかもしれませんが、人間性では完敗したといわねばなりません。

  期待が吹き込む生命力

 赤ちゃんや幼児の姿には、伝え聞くインディアンの感性と似たものを発見することができます。公園でザワザワと音を立てる木の葉のざわめきに見入っているとき、かれらは天使からのメッセージを聴いているのではないでしょうか。地べたを這ってアリンコを追い掛けながら、彼らは土地の精霊と対話しているのかもしれません。そして彼らは、ウソをつきません。ウソというものを知りません。
 ウソを戒めた教えは昔からいくらでもあります。モーゼの十戒をはじめ、キリスト教、イスラム教、仏教、神道など、宗教ではかならず虚偽や妄言が厳しく戒められてきました。子どもの教育でも、ウソつきを奨励することなどありえません。「ウソつきは泥棒のはじまり」「ウソをつけば舌を抜かれる」などと、幼い頃から子どもをたしなめます。政治などはウソで塗り固められた世界ですが、それでも証人喚問の場面では「これからの発言に一点のウソもないことを誓います」と宣誓させられるように、少なくとも建前ではウソを罪悪視しているのです。
 このようにウソが戒められる反面、「ウソは実(まこと)の骨」といわれる通り、人の世の真実がウソによって支えられているのも事実でしょう。商売では多少のウソや誇張が混入しても大目に見られます。悪質な詐欺行為は論外ですが、売り値に不相応な品物をつかまされたとしても、買い手に見る目がなかったといわれるのがおち。ウソは悪、正直は善と、必ずしも合理的に分別できません。
 正直な発言がふさわしくない場面もあるのです。子どもはほんとうに正直ですが、来客に向かって、
「おじちゃん、ずいぶんハゲてるね」
「おばちゃん、そのスカートはバーゲン品でしょう」
 なんて正直に言ったとしたら、
  「そんなことお客様に向かって言ったらダメ!」と親はたしなめるにきまっています。正直かならずしも善ならず。
 病人や元気のない人を励ましたり安心させるために、積極的にウソをついた方が賢明な場面もあります。適度なお世辞(これもウソや誇張がほとんど)も人間関係に潤いをもたらすでしょう。また、他人を騙したり欺いたりする悪意などサラサラなくても、結果的にウソをついてしまう場合もあります。「許されるウソ」や「奨励されるウソ」もあるし、ときにははかり知れない効用があるのです。
 奨励されるウソで連想するのは、教育における〈ピグマリオン効果〉です。ピグマリオンとは古代ギリシャの伝説中の人物。腕のいい彫刻師だったピグマリオンは、あるとき恋しい女性を思いつつ石像(ガラテー)を造りました。自分でも驚く出来ばえだったので、彼はその像を愛し、人間のように動き出すよう真剣に神に祈っていたところ、念願かなって像に生命が吹き込まれたというのです。この話をもとにフランスのジャン・ジャック・ルソーが作詞したオペラが、パリで一世を風靡したこともあったそうです。
 一九六〇年代に、アメリカのハーバード大学のロバート・ローザンサルとサンフランシスコの教育者レノア・ジェイコブソンの二人が、共同である実験を行ないました。それは、教師の考えや思いがどの程度生徒たちに伝わるか、という実験です。言葉に直接表現しなくても、教師が生徒に大きな期待感を抱けば、それが生徒になんらかの形で効果的に伝わるのではないかと予想されていました。そこで実際に、教師が大きな期待をかけて指導した生徒と、あまり期待もせずに教えた生徒とで、どの程度の差があるのかを、いろいろな角度からたくさんの実例を通して調査してみたのです。結果はびっくり、ある程度の差どころか、顕著な違いがありました。
 つまり、教師が期待をかければかけるほど、生徒はその期待通りの好成績をおさめます(それを〈ピグマリオン効果〉と命名)。極端な場合、成績がよいと教師から思いこみの期待をかけられた生徒は、たとえその思いこみが事実とは反していても、期待に沿ったよい成績をとるようになりました。逆に、あまり期待をもたれない生徒は、向上のチャンスに出会うことが少なく、成績も伸び悩みだったそうです。
 この〈ピグマリオン効果〉の事実は、いくつかの重大なことを教えてくれます。たとえば教育者(親はもちろん)は子どもの外形・外観に惑わされてはならないということ。外形・外観だけで判断して偏見を抱くと、教育者側の期待不足が生徒の能力開花のチャンスを摘み取ってしまうことになりかねません。また、場合によっては思い込みでもよいから、子どもの可能性を信じて大きな期待をかけてあげることが必要だということになります。
 期待そのものを、あえて言葉にするまでもないでしょう。期待感が高まれば、自然に日常発する言葉や態度に現われます。そこには事実と違うウソが含まれるかもしれません。でもそれは、許される、いや奨励されるウソです。
 では、許されるウソと、許されないウソの違いはどこにあるのでしょうか。

  許される「ウソ」もある……?

 アメリカインディアンの酋長は侵略してきた白人に対して、約束を守らないウソつきだと非難しました。白人のウソの背後には、自分たちだけの利権獲得しか考えないエゴイズムと、白人優位の差別意識が渦巻いているのですから、許されないウソつきと非難されるのは当然です。他方、相手の喜びや平安や成長を思い願う気持ちから発した言動は、たとえそれが真実とは違っていても許され、ときには積極的に奨励もされます。ただし相手を喜ばせて自分に好意をもたせようとするウソは、やはりエゴのウソですから感心できません。「利己」か、それとも「利他」か、言動の背後にある意識の方向をしかと見定めてウソの善悪を判断しなければ。
 物心ついてからの子どもには、ただ杓子定規に「ウソはだめ」と唱えるのでなく、いろいろな場面でウソの善悪を判断させるよう指導すべきでしょう。それは生きた教育です。
 ところで許されるウソとか奨励されるウソというものは、ほんとうはないのだともいえましょう。いままでウソの定義をはっきりさせませんでしたが、ウソを「真実でないことをいう」と単純に定義するのであれば、許され、奨励されるウソがあっても構いません。しかしウソを「他人を騙して自分の利得をはかる意図から真実ではないことをいう」と定義したならば、ウソが許され、奨励されるわけがありません。
 インディアンが「ウソつかない」というそのウソとは、後者の意味でのウソなのでした。彼らの世界にウソはないのです。なぜなら彼らが未熟だからではなく、神々とのつながりを常に意識しつつ、エゴイズムとは遠いところで生きていたからにほかなりません。
 愛する子どもたちが持っている、インディアンのような感性と誠実さを、さらに育ててあげたいものです。





  たまげる記憶の話

 各界で功績を残した人や著名人の訃報が、最近はひどく多いような気がします。そう感じるのは、筆者の人生もすでに後年(?!)に入ったからなのでしょうか。
 もう三年以上も前になりますが、正月早々に井筒俊彦先生の訃報に接して、本当にびっくりしました。イスラムを中心とした東西哲学の研究家である井筒先生は、海外でこそ「日本の井筒」と高名なのですが、日本では哲学に関心がある人以外にはほとんど知られていません。
 井筒先生は一九一四(大正三)年の生まれで、長い間、慶応義塾大学の教授をつとめられました。お若い頃から「古典はすべてその国の言葉で読む」という方針で勉強されたものですから、通暁しておられた外国語は十や二十どころではありません。もちろん欧文の著作や論文も数多く、数年前から『井筒俊彦著作集』(全十一巻)も刊行されています。
 井筒俊彦先生の訃報を聞いた年の一月号の『中央公論』を見ていたら、井筒先生の最期の対談記事となった、作家の司馬遼太郎さんとの新春特別対談が掲載されていました。「二十人ぐらいの天才が一人になっている」と評される井筒先生を前にしては、博識で名高い司馬さんももっぱら聞き役。タタール(韃靼)人との出会いにはじまるお二人の対談は、ひどく面白くて読みごたえがありました。
 話によると、井筒先生は大学を卒業して助手になったばかりの頃に、二人のタタール人からアラビア語を学び、本格的に学問の世界へ入られたそうです。そのタタール人の逸話が信じられないくらい面白いのでご紹介しましょう。
 最初に教えを受けた人は、上野界隈に住んでいたアブド・ラシード・イブラーヒム(一度聞いただけではとても覚えられない名前です)という五十九歳以上の老人。怪物のような恐ろしい風貌の矍鑠たる偉丈夫で、若き井筒先生に一冊の本を差し出しながら、「この本はアメリカから来たばかりだ」と、古典アラビア語で言ったそうです。生まれてはじめてホンモノのアラビア語を耳にした井筒青年は恐ろしさも忘れてすっかり感激してしまいました。その感激が伝わったのか、アブド……爺さんは若者をすっかり気に入り、アラビア語とイスラム教を伝授してくれることになりました。大学は放っておいて毎日のように上野に通った井筒青年、ついには老人から「わが子よ」と呼ばれるまでの間柄になったそうです。
 アブド……爺さんの頭の中にイスラムの古典が全部入っているのは驚きでしたが、もっと恐ろしい人物に井筒青年は会うことになります。二年ほど経たあるとき、「お前にはもう教えることがない。ワシなど比較にならない大学者がいるから紹介しよう」といわれて会ったのが、二番目のタタール人のムーサー・ジャルッラーハ先生でした。タタールの世界で随一というこの大学者は、お金も持たない諸国漫遊の途上で、日本に滞在していたのです。
 教えられた代々木の住居に勇んで訪れたところ、部屋代も払えないムーサー先生は、大家さんからお情けで住むことを許された押入れの上段からモゾモゾ這い出して来たのだそうです。さっそく弟子入りしたものの、テキストなど一冊もありません。この大先生、イスラムでやる学問の本はすべて頭の中に入っているのでした。
 たとえば、八世紀に書かれた難解な千ページもの古典を、端から端までまる暗記しているうえ、その注釈書(膨大な量にちがいありません)まで暗記しているというのです。いったい頭の構造はどうなっているのかしら。とにかく本は使わないのだそうです。井筒先生に向かって大先生いわく、
「なんという情けない。おまえは火事で本が焼けたら勉強できないような学者なのか」。
「おまえみたいのは、本箱を背負って歩く、いわばカタツムリだ。そんなものは学者じゃない。
なにかを本格的に勉強したいんなら、その学問の基礎テキストを全部頭に入れて、その上で自分の意見を縦横無尽に働かせるようでないと学者じゃない」。
 語学の天才である井筒先生がこう言われたというのですから、ムーサー先生のスーパー天才ぶりがうかがえるではありませんか。
 あるときなど、六百ページくらいのアラビア語の本を貸したところ、一週間ばかりたってみると、もうほとんど暗記していたそうです。とにかくどんなものでも、一度読んだらそのまま覚えてしまうというのですから、たまげるではありませんか。


 あ、ゴメンナサイ。立ち読み部分はここで終わりなんです。ここまで読んで下さって有りがとうございます。
 このあともっと面白くなりますから買っていただけるとすごく嬉しいです。 




















  おわりに


 男子の骨太な生き方や企業と人間をテーマに健筆をふるっておられる作家の城山三郎さんの著作に『人生の流儀』という一冊があります。これはオリジナルな小説や随筆ではなく、城山さんの数多くの著作からビジネス社会に生きる人々の心の糧になる言葉を精選したアフォリズム(箴言)集です。城山さんによる数々の名文句は、城山さんの人生の流儀から生まれ出てきたものにほかなりません。名文句こそ発せられないにしても、すべての人々に各人なりの人生の流儀があるのではないでしょうか。
 その人生の流儀には、意識的な面と、自然にそうなる面とがあるようです。意識的とはいっても、気を衒ったり、他人とは違う振舞いで自分を無理に印象づけようとするヘソ曲がりの行動は、流儀の名にふさわしくありません。人生をよりよく生きようとして為されたことであれば、その人の流儀から出ているといってよいでしょう。
 流儀の一つとして、人間もある年令になったら「やること」だけでなく、「やらないこと」「ストップするもの」にチャレンジしてみるのもなかなか意義あることです。子育てにおいても、親としてなにか「やらない」ことを考えたいものです。子どもに対して、「やらない」なにかをそれぞれ家の流儀として持つのは大切ではないでしょうか。
 ある友人の家庭では、テレビを置かないと決めています。ファミコンを絶対に買い与えない友人もいれば、子どもが中学生になるまで外食はしないと決めている家庭もあります。また、真冬でも子どもにはシャツ一枚しか着せないことを実行している親もいて、驚かされました。さらにはどんなことがあっても子どもを叱らないという知人もいますが、これなどは本当に難しい流儀でしょう。後略






















 著者プロフィール

丸山敏明(まるやまとしあき)

1953年、東京都に生まれる。1976年、東京教育大学文学部哲学科卒業。1978年、東京高等鍼灸柔整専門学校(本科)卒業。1984年、筑波大学大学院哲学思想研究科(博士課程)修了。文学博士。航空保安大学校・貞静学園保育専門学校・茨城大学にて哲学・中国文化論等の非常勤講師、日本学術振興会奨励研究員(1984年度)筑波大学非常勤講師をつとめる。現在、倫理研究所研究員、目白大学非常勤講師。
著書「気・論語からニューサイエンスまで」(東京美術、1986年)「鍼灸古典入門」(思文閣出版、1987年)「黄帝内径と中国古代医学」(東京美術、1988年)「純粋倫理入門」(新世書房、1989年)『心のオシャレしませんか』(明窓出版、1992年)訳書「黄帝内径概論」( 龍伯堅著、東洋学術出版社、1985年)ほか。
現住所 東京都武蔵野市境2-7-1-2F






















本の誕生秘話

 ●●●●●本の誕生秘話の中身●●●●●























関連書籍の紹介

 ●●●●●関連書籍の紹介の中身●●●●●
























読者感想文

みなさんからの素敵な感想文をお待ちしております。  編集部  
書き込みは
こちらからお願いします