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中国人の父と日本人の母との間に生まれた筆者にとって母国と呼べるのは日本か、中国か? 一九六六年から10年間、嵐のように吹き荒れた文化大革命が毛沢東の権力争いによる 「愚民政治」政策であったことを中国はもちろん、日本のマスコミも真実を語らなかった。 2000万人以上の知識人を無実の罪で殺害しておきながら中国は歴史の闇に葬ろう としている。 激動の嵐に翻弄されながらも権力に屈せずひたすら人間の温かさを求めて生き抜いた家族の証言は貴重である。 この本は現在の中国の「反日」のルーツを戦慄と共に教えてくれる。
まるで発刊を待っていたように日本図書館協会から
“優良図書選定”の指定を受けました。

この本を読んだ人は次の本をお読みになっています。
「ドイツと日本の真ん中で」
「虹の国から〜ニュージーランドひとり暮らし〜」
「南京好日

目次 本文70%

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Copyright (C) 2007 明窓出版, All rights reserved















       目 次


 1 父と母と ……………… 5
 2 「南新」八舎甲 ……………… 20
 3 大躍進、大飢餓 ……………… 34
 4 母のいない我が家 ……………… 44
 5 黎明姉の下放 ……………… 61
 6 文革の足音 ……………… 75
 7 工農兵がすべて支配する ……………… 96
 8 立ちこめる暗雲 ……………… 111
 9 北京公安局の恐怖 ……………… 130
 10 宿舎焼失 ……………… 155
 11 張万久教授の自殺 ……………… 178
 12 十二歳の孤独な暮らし ……………… 194
 13 黎明姉の結婚 ……………… 227
 14 六年振りの再会 ……………… 237
 15 深い後遺症 ……………… 260
 16 父の喀血 ……………… 276
 17 名誉回復 ……………… 288
 18 日本への一時帰国 ……………… 308
 19 日本へ、香港へ ……………… 322
 20 最愛の父の死 ……………… 343
 21 結 婚 ……………… 360

 終わりに ……………… 381


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 1 父と母と


「あなたは中国人、それとも日本人?」
 初対面の中国人から、また日本人からもよく尋ねられる質問である。
 私のように国際結婚で生まれた子どもは以前「ハーフ」と言われていたが、最近では「ハーフ」ではなく「ダブル」という言い方もされるようになった。二つの国の文化を体験し、二ヵ国語ができる。半分(ハーフ)ではなく、倍(ダブル)のものが身に付いていると言うこともできるからだろう。
 ハーフにせよ、ダブルにせよ、私自身の心境はとても複雑だ。中国にいたときは日本人と見なされていた。そして今、日本社会に住む私のことを、いったいどれだけの人が日本人と認識してくれるだろう。二つの祖国を持っているはずの私が、どちらも祖国と感じられないのである。
 それでも私は、日本と中国が永遠に仲良く付合っていけることを、心から望んでいる。なぜなら、中国人の父と日本人の母が大好きだからだ。
 私は中国で生まれ育ったが、我が家の生活、習慣はまるで日本と変らなかった。と言っても、現代日本ではなく、戦前の日本である。
 母は今の日本ではあまり見られない典型的な大和撫子だ。父に全幅の信頼を寄せ、いつも三歩下がってついていた。私は幼い頃から、そんな母に誇りを感じていたし、日本人女性は皆、母と同じように優しい人ばかりだと思い込んでいた。だが、日本に帰ってみると、まわりに母のようなタイプの女性はほとんどいなかった。
 私はこれまでの人生の半分を中国、半分を日本で過ごした。現在は行政組織の中で、自分の持っている二つの文化体験と言葉を活かし、日中友好の橋渡しの仕事をしている。
 私たち夫婦には十六才になる息子がいる。彼は赤ん坊のときから私の中国語を耳にしていたため、ごく自然に中国語を覚えていたようだ。ただ、返事は日本語でしか返ってこない。私も無理して中国語を喋らせない。自然の流れに任せている。私と息子の会話はいわゆる「ちゃんぽん」会話である。
 将来息子が、もし外国人の女性と付き合うようになったら、私には許すことができないかもしれない。私のように祖国を実感できない二世が生まれたら可哀そうだと思うからだ。
 父と母が結婚したとき、自分たちの子どもは誰よりも幸せになれると信じたに違いない。しかし、確かな祖国をもたない二世を待ちかまえていたのは、さまざまな困難だった。私たちが味わった苦難は、「ハーフ」でない人には分からないかもしれない。私たちはそれを一生背負っていくしかないのである。

 
 私の母は一九二八年(昭和三年)二月二十一日に中国東北地方(旧満州)の遼寧省大石橋で生まれ、田中照代と名づけられた。三人姉妹、双子の妹、三女である。
 教育は、同じ遼寧省大連にある日本人学校で受けた。当時、中国東北地方には大勢の日本人が住んでいたため、日常生活は日本語で事足りた。そのため母は敗戦時まで、中国語をまったく話せなかった。
 彼女の母親は、母が六才のとき病気でなくなった。
 父親は満鉄(旧満州鉄道)に勤めていた。母の話によると、生活はとても豊かだったらしい。日常生活に必要なものはすべて揃っていたし、当時まだ貴重だったオルガンや蓄音機もあったそうだ。
 日本人学校を卒業した母は、一九四五年まで大和日本警察署でタイピストをしていた。敗戦時、父親は三人の娘を一緒に連れて帰国すべく準備をしていた。だが、母は職場の残務整理のため彼らより出発が一週間遅れた。
 この一週間が母の人生を大きく変えた。日本に戻った父親と二人の姉との連絡は、その後三十年間一切途絶えてしまうのである。
 実際に引揚げを経験された方は、当時の悲惨さを私よりよくご存知だろう。敗戦直後、若い女性が一人で日本に戻ることは至難の業。けっきょく母は帰国できず、中国に残るしかなくなってしまったのである。
 一人ぼっちになった母は、生活のため、遼寧省沈陽(当時の奉天)鉄道局の局長公邸のメイドになった。この公邸には局長と副局長数人、その家族が住んでいた。局長は行政管理者であり、副局長は技術者だった。
 当時十八歳だった母はとても気立てがよく、きれい好きだったので、局長たちに可愛がられていた。そのため、中国人ボーイたちからいつもねたましく思われていたようだ。母がきれいに拭いた階段に、嫉妬からわざと泥をぶちまけられることも度々あったという。さらに、ふだんは優しい局長たちも、酒が入るとねちねち絡んできた。
 しかし、敗戦国民の悲しさ。何も言えない。母はひたすら我慢するしかなかったのである。
「私の部屋に行きなさい。あそこなら安全だから心配ない」
 辛い状況におかれた母をいつも匿ってくれた一人の副局長がいた。彼はどんなに身分の低い人に対してもけっして威張ることなく、優しく接した。母がいじめられていれば守ってくれ、病気をすると、すぐに薬や布団を持ってきてくれた。この副局長こそが張鴻逵、そう、私の父である。

 父は遼寧省岫岩県、辺鄙な村の
 
 あ、ゴメンナサイ。立ち読み部分はここで終わりなんです。ここまで読んで下さって有りがとうございます。
 このあともっと面白くなりますから買っていただけるとすごく嬉しいです。 


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 終わりに

 二つの文化、二つの生活習慣を身につけ、二つの祖国を私は持っている。中国では、中国人の父を中心とする家族が私を心から愛してくれた。日本では、日本人の主人を中心とする私の新しい家族が私を暖かく包み、力強く支えてくれた。これまでどんな困難にも屈することなく、乗り越えて生きて来られた。世間では私を「ハーフ」と呼んでいるようだが、主人は「ダブル」と呼んでくれた。だから、私も「ハーフ」ではなく、「ダブル」であることを自負したい。
 私は今、主人と子供によく言っている言葉がある。それは「私はとても幸せな人間だ。なぜなら、私は家族に恵まれている」ということである。
 私は父母と姉たち、そして主人と息子を心から愛している。だから、中国と日本が大好き。これは理屈ではなく純粋たる感情である。
 いつか中国で「あなたは中国人だよ」、そして日本で「あなたは日本人だよ」と言われる日を待ちながら、これからも日中両国友好のために、今までどおり頑張って行く。












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